第9話 女武芸者
朧たちが石倉三河の庵でちょうど口寄せをしている頃、丸山伊織のいる但馬屋の一部屋では、暇を持てあます清音とお雪がお喋りを続け、その近くでは初夏の気候の所為か近ごろ無性に増えてきた蝿の退治に追われる伊織が、
「そろそろか?」
と智月に言った。
沼田に来て数カ月────この辺りはほとんど回り尽くしたか、最近めっきり口寄せの依頼も減って、次の土地へ移動する時を迎えていた。
「次は高崎ですか?」と智月が聞く。
「そうだなぁ。厩橋(前橋)には弟の登が行ったし、あいつもそろそろ移動するだろう。高崎もそうだが、それとも安中か伊勢崎か・・・いずれにせよその辺りで逗留しよう」
今回、歩き巫女を従える神事舞太夫に託された任務は、沼田から小田原までの人心の実態調査である。伊織兄弟は大きな宿場を一つ飛ばしに、互いに小田原方面へ向かう申し合わせになっていた。
バシッ!
「ヤイ、ちくしょう!」
伊織は手にした二つに折った古い本で、柱の角にとまった一匹の蝿を叩き損じて畳を踏んだ。
「まったくすばしっこい奴だ!────」
と、やさぐれている所へ、
「丸山様、お客様でございます」
と言って、但馬屋の奉公人が一人の女を連れて来た。
見れば年の頃なら二十歳くらいか、黒々とした立て髪に七色に光った貝殻の簪はまだ未婚であることを示していたが、清楚な身なりでありながら、着物の下には鍛え上げた躰を隠した、いかにも武家育ちといったふうである。
伊織は彼女を部屋に迎え入れると、智月は座布団を出して丁重にそこに座らせ、お雪に「お茶と茶菓子をお出ししなさい」と言って、女の対面に座った伊織側の、少し離れた所に正座した。伊織は人懐っこい笑みを浮かべ、
「いやぁ実は、そろそろここ沼田を発とうと思っていた所なのです。貴方は運がいい。で、どのような御依頼でございます?」
と聞くと、女は表情を作るのが苦手なのか、顔色ひとつ変えずに、
「依頼ではありません」
と言った。そして少しためらった後、
「わたくし、割田下総の娘で、名を志乃と申します」
と名乗った。
割田下総と言えば吾妻の横尾村に屋敷を構える武家ではないか。上杉に支配される前の信玄の勢力下においては白井城とその支城である柏原城は武田の手にあり、そのうち柏原城の城代を務めていたのが割田下総に違いない。特に忍びの術に優れているという噂は伊織の耳にも聞こえており、唐沢玄蕃らと行動を共にする事も多いと言うが、
「その割田様の娘さんが何故こんな所へ……?」
と伊織は不思議そうに聞いた。すると志乃は、
「信濃の祢津に巫女の修練道場があると父から聞きました。最近そこで、女武術者の養成を始めたとか。叶うならば、私も是非そこに仕官してお役に立ちたいと思い、こうしてここに参りました。どうかお力添えを願えませんでしょうか?」
と真剣な目付きで言うのであった。
「そんな事なら父の割田様に頼めばいい事ではないですかな? 何もわざわざ吾妻から私どもの所に来なくとも直ぐに叶おう?」
伊織は先ほどから首筋辺りを飛び回る一匹の蝿を気にしながらそう言うと、
「父は、私がそこへ仕官することには反対なのです」
志乃の目に、少し悲し気な色を帯びたのが見てとれた。
「イヤイヤ、女武術者といってもそんな簡単なものではないと思うぞ────のぉ智月?」
もとより伊織は巫女修練道場の厳しさを知っている。問われた智月も、
「真田様が何をお考えか判りませぬが、武術や武道というのは男のやるもの。女には向かぬと存じます」
と答えた。伊織もそれに輪を掛けるように、
「そうであろうな。いくら割田様の娘とはいえ、荷が重すぎるのではないかな?」
そう言いつつ、やはり気になる蝿を手で払いながら、
「イヤ、さっきから五月蠅くて・・・」
と苦笑した。すると志乃は、何やら口をモゴモゴさせたかと思うと、すぼめた唇の先から〝フッ〟と息を吹き出した。その息と同時にキラリと光る何かが見えたが、次の瞬間、伊織の周りを飛んでいた蝿が〝ふつ〟と消え失せ、後ろの壁に小さな音を立てた。
見れば、針に胴を貫かれた蝿が壁に突き刺さっており、身動きが取れずに羽を〝ビービー〟鳴かせているではないか。着物を縫うときに使う縫い針などは、割田家の女性の手に渡れば凶器と化す。小さな針を壁などに投げて刺すなど日常の修練として身に付けていた。それを口に含んで吹き矢のように飛ばすという絶技は彼女が編み出したものか?────智月は勿論、伊織などは唖然と口を開いて言葉も出ない。
「はしたないところをお見せしました────」
と志乃が言う。
「そ、其方・・・そのような技を、どこで・・・?」
「母に教わりました。私の家は代々忍びの技を伝えており、私も幼き頃より父からその技を教えられて来ました。それらの技を修練道場の巫女の方たちに伝えたい・・・ところが────」
と、志乃は今に至る経緯を静かに語り始める。
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ののうの野
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