第4話 雲井丸
鷹狩りは戦国武将のステータスである。
織田信長をはじめ、豊臣秀吉、徳川家康など、〝鷹狩り〟と称して野山に出掛けたのは、猟を通して軍事演習を兼ねたり、その土地の様子や民情を探るための視察や巡見の意味もあり、特に秀吉などは自分の権勢付けの政治的パフォーマンスとして大規模な鷹狩りを行なった。
古くは朝廷を中心とした貴族の権威権力を示す単なる遊びとして栄えており、鷹は朝廷からの御預り物として非常に貴重な鳥だった。そもそもの始まりは、仁徳天皇の御代というから四世紀ころにまで遡る。
『日本書紀』の仁徳天皇即位四十三年秋九月一日の記録にはこうある。
依網屯倉阿弭古は奇妙な鳥を捕まえて来て天皇に献上して申し上げた。
「私は毎日網を張って鳥を捕らえていますが、未だこんな鳥は見たことがありません。あまりにも珍しいので献上いたします」
天皇は酒君を呼び寄せ「この鳥は何という鳥か?」と尋ねると、
「この鳥は百済に沢山います。馴らす事ができれば人に従い、また、非常に速く飛ぶので諸々の鳥を掠め獲ります。百済の人は俗にこの鳥を〝倶知〟と号しています」
と教えた。これが今に伝わる鷹である──と。
更に天皇は酒君にその鷹を授け、
「育てて馴らせ」
と命じると、どれほどもしないうちに飼い馴らした酒君は、その鷹の足になめし革の縄をつけ、尾に小鈴をつけて腕の上に乗せ、再び天皇に献上した。
早速この日、天皇は百舌鳥野に行幸して遊猟を楽しんだ。その辺りは雌雉が多く飛ぶ恰好の狩り場である。半信半疑で鷹を放てば、たちまち数十羽の雉を捕らえたので、この月に初めて鷹甘部(鷹の飼育を司る行政職)を定め、その鷹を飼育する処を人は鷹甘村と呼ぶようになった──。鷹甘村というのは酒君塚古墳が出ていることから、現在の大阪市にある鷹合のことであろうか。
それが〝鷹匠〟の技となって根津に伝わったのは、祢津氏二代目当主貞直の時で、彼は、諏訪氏大祝の当主貞光の猶子となって諏訪郡内の一庄の領主となり、保元・平治の乱にも出陣したと言うから平安時代後期のことである。
この貞直の妻というのが源斉頼という男の女で、斉頼の妻は呉竹女という女鷹匠の創始でもあり、夫婦共に〝斉頼流〟や〝呉竹流〟といった鷹匠の流派の源流を作り出している。当然貞直の妻はそのような両親の許で育ったわけだから鷹の扱いには相当長けていて、ものの本に寄れば、諏訪社の縁起が記された『諏訪大明神画詞』には、
『この妻は婦人の身ながら丈夫の芸にも達しており、中でも鷹においては妙を得ていた』
と書かれているそうで、娘を貞直に嫁がせる際、鷹飼いの秘伝を授けたともされている。つまりその娘こそ祢津に鷹匠を伝えた張本人であり、彼女もまた女性であったという事には、驚き以上に不可思議なシャーマニズムを感じずにはいられない。
その貞直の妻の名を────、実は誰も知らない────。知らないが、仮に〝朱光〟と名付けよう。
ある日、貞直が秘蔵していた兄鷹(雄の鷹)が逃げてしまい、その行方が分からなくなってしまう。それから数年後、貞直と朱光が浅間山の麓を旅した時、空に舞う一羽の鳥を見つけた。朱光は輿の中から空を見上げ、
「あの鳥は、以前逃がした兄鷹に違いありません」
と言うと、輿から降りて持っていた鳥のもも肉と鷹匠の装束を夫に渡し、
「呼び寄せてみて下さい」
と言った。貞直は言われた通りに装束を身につけ、野原に立って鷹に呼びかけながら天高く拳を挙げると、空高く舞っていた鷹はたちまち急降下し、貞直の腕にハタと舞い降りた。見ればそれは間違いなく、数年前に逃げた鷹であった。
後にこの鷹は〝雲井丸〟と名付けられた────。
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