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弱者男性の僕が弱者を叩く理由【肉屋を支持する豚】

僕は氷河期世代の底辺おじさんですが、「社会保障の改革」「小さな政府」「財政再建」などの"自分自身の首を絞める"可能性がある政策を支持しています。

そのためか、よく「なぜ同じ弱者なのに弱者の敵に回るのか?」「弱者のくせに強者を支持するのが理解できない」と言われることがあります。


なお、僕は弱者を叩いているわけではありません。フェアネス(公正さ)に欠ける者を叩いているのです。

本当の公正さとは、主観的感情やエゴを排除して客観的な思考を持ち、常に一貫したロジックに基づいた判断をし、自分自身すらも批判の対象にできる者を示します。

僕の事を「肉屋を支持する豚」と揶揄する人もいますが、このような発言をする人こそフェアネス(公正さ)に欠けた軽蔑すべき人だと思います。


公正さに欠ける弱者の問題点とフェアネスが重要な理由

有名な思考実験として「トロッコ問題」というものがあります。

「トロッコに轢かれて死にそうな"5人の人間"を救うために、自ら手を下して"1人の人間"を切り捨てるべきか?」という問題ですね。


今、このトロッコ問題の解答は話と関係ないので割愛します。

私が問題視しているのは、「"5人の人間"と"1人の人間"のどちらを重視しますか」という問いかけが「"5人の他人"と"1人のあなた"のどちらを重視しますか」という問いかけに変わった途端に、結論を変える者が存在するという点です。

このように議題に「当事者性」が加わった途端に、主観やバイアスが入り込み客観的で論理的な議論ができなくなってしまう人が一定数存在するのです。

そして、このような当事者性を語る愚か者のせいで世の中は悪くなっていると言えます。


残念ながら、弱者ほどフェアネスに欠ける人が多いと言わざるを得ません(弱者の全員がフェアネスに欠けているわけではありません)。この理由は、弱者に心の余裕が無いためです。

例えるならば、弱者は目前まで自分をひき殺そうとするトロッコが迫っている状態で、自分の命を脅かす恐怖と"助かりたい"という願望の感情に囚われており、トロッコの軌道とか隣の線路とか全体を把握する余裕が無い状態です。

逆に強者はトロッコに轢かれない安全地帯にて、全体の状況を俯瞰している事が多いのです。そのため、目先の感情に囚われず、客観的論理的な思考ができるのです。


時間的、精神的、経済的な余裕がない場合、ストレスや焦りがつきものです。そのような状況下では、自分自身や周囲の状況を客観的に捉えることが難しくなります。つまり、視野が狭まるのです。

余裕がないと、物事を深く考える余裕もなくなります。表面的な情報だけを捉える傾向が強まり、本質を見極めることが難しくなります。また、余裕がないと、他人や状況に対する理解も薄くなりがちです。相手の立場や思考に対する共感性が欠如し、コミュニケーションが困難になることもあります。

さらに、余裕がないと、物事を総合的に判断する能力も低下します。急いで行動しなければならない状況下では、短絡的な判断が増え、結果として後悔することもあります。また、余裕がないと、柔軟性や適応力が弱まり、困難な状況にうまく対処できなくなることもあります。

視野が狭まる原因として、余裕の不足だけでなく、過度のストレスや緊張も挙げられます。ストレスや緊張が長期間続くと、脳の機能が低下し、判断力や洞察力が鈍くなることが知られています。その結果、物事を客観的に見ることが難しくなり、偏った視点で物事を判断することにつながります。


このようなフェアネスに欠ける弱者を可哀そうに思い、共感して耳を傾けてしまった結果、現代社会はどんどん悪くなってしまっているのです。

実は10代・20代の若者はフェアネス(公正さ)を非常に重視しています。

フェアネスに欠ける人間は中高年の方が多い傾向にあります。フェミニストなどが若者から小馬鹿にされていることからもよくわかると思います。


フェアネスがもたらすメリットは、社会や個人に様々な良い影響をもたらします

まず、フェアな制度や環境は、社会全体の安定と調和を促進します。例えば、公正な法の下での取引や契約は、信頼関係を築き、経済活動を活性化させることができます。それによって、経済成長が促進され、豊かさが共有されることで、社会全体の福祉が向上します。

また、フェアな競争が奨励される環境では、個人の能力や努力が正当に評価されるため、才能が開花しやすくなります。このような制度下では、能力ある人がその実力を発揮できるため、企業や組織も最適な人材を生かすことができ、生産性が向上します。こうした効果によって、個人の成長や自己実現が促進され、社会全体にとってもプラスの効果をもたらします。

さらに、フェアネスがもたらすメリットは、社会の連帯感や共感情を高めることもあります。公平な制度や取り組みが行われることで、人々はお互いを尊重し、協力し合う姿勢を養うことができます。その結果、社会全体が結束力を持ち、困難な課題にも共に立ち向かう力を醸成することができます。


しかし、フェアネスが実現するのは容易なことではありません。

時には、利害や立場の対立、格差の存在などによって、公平な状況が脅かされることもあります。そのような障害を克服し、フェアネスを維持するためには、個人や組織、社会全体が努力を重ねる必要があります。

フェアネスに欠ける弱者への同情や感情論に釣られてしまうのではなく、常に客観的論理的であり続け、データや科学的根拠に基づいた合理判断と行動を行っていく必要があるでしょう。

公正な環境によって、社会全体が安定し、個人の成長が促進されることで、共に豊かな未来を築くことができるでしょう。このような価値観を大切にし、フェアネスを実現するための取り組みを積極的に推進していくことが、持続可能な社会の構築につながるのではないでしょうか。


"当事者性"という害悪。「肉屋を支持"しない"豚」の感情とエゴが世の中を悪くしている

「当事者性」とは、自らがその事象や状況に巻き込まれることによって、直接的に影響を受ける状態を指します。その要は、「当事者である」という立場から生じるものであり、外部からの観察者や関係者とは一線を画す存在であると言えます。

当事者性が持つ効果は、主に自己の立場や利益を守る意識の高まりによるものが挙げられます。自らが関与している問題や出来事に対しては、より深い関心を持ち、積極的にその解決や結果に貢献しようとする傾向があります。当事者性を持つことで、問題の本質や要因を的確に把握し、適切な対処や判断を行うことが可能となります。

一方で、当事者性が強すぎる場合には、客観的な視点や他者の意見を十分に取り入れることが難しくなるというリスクもあります。自らが直接的に関与しているだけに、感情的な偏りや主観的な判断が影響を及ぼす可能性が高まります。そのため、客観的な視点を確保し、客観的な判断を下すことが必要となります。


近年のSNSを見ると、このような「強い当事者性」に囚われた者が多いことがよくわかると思います。例えば以下のような存在です。

●フェミニスト

●アンチフェミ

●反AI

●経済的弱者

●れいわ信者


このような「当事者性弱者」は視野の狭いポジショントークをすることが多いのです。相手の立場や意見を適切に考慮せずに自分の意見や立場を主張しすぎるのです。

ポジショントークは、自己主張や主張の裏付けとして様々な場面で活用されるテクニックですが、適切なコミュニケーションが取れないと問題を招く可能性があります。

例えば、AとBが異なる意見を持っているとします。Aは自分の意見を主張するためにポジショントークを用い、自分の立場を強調します。しかし、BはAの立場や意見を理解せずに、自分の意見を押し付けることがあります。このような状況では、双方が対立し合い、意見の衝突が起きる可能性が高まります。

さらに、ポジショントークを使っている人が「何故自分の主張が受け入れられないのか」といった疑問を持ち、相手に対して敵対的な態度を取ることもあります。このような状況では、双方の意見がぶつかり合い、対話が停滞してしまう可能性があるのです。


具体的な事例で解説しましょう。

これまでの昭和の時代は、女性が不当に扱われていた男尊女卑の社会であったことは事実です。そのため、フェミニストの誕生は当然であったと言えるでしょう。しかし、フェミニストの過激な主張を受け入れてしまった結果、今度は逆に女尊男卑の社会に傾きつつあります。

これは、フェミニスト自身が「当事者性」を有しており、不当に扱われていたという絶望や男性に対する怒りなどの感情と結びついているため、適切なバランスを目指すことなく過剰に反撃しすぎてしまったためです。

このような状況はフェアネス(公正)からは程遠いといえるでしょう。

"当事者性"が害悪であり「肉屋を支持"しない"豚」の感情とエゴが世の中を悪くしていることがよくわかると思います。


私達が本当に必要とするものは、当事者性や感情論ではありません。幼稚な感情で過剰な反撃をしたり「倍返し」をしてはいけません。

感情と主観を排除し、客観的・論理的で一貫した理路に基づいたフェアネス(公正さ)という神の天秤を水平に保つことが重要なのです。


フェアネス(公正)な社会を作るために必要なこと

それでは「当事者性」を排除し、本当にフェアネス(公正)な社会を作るにはどうすればよいのでしょうか?

それは、個人個人が「立場」「主観」「感情」「バイアス」「ポジショントーク」を排除して、常に以下の観点をもって思考していくことが大切です。

〇現代社会における正しい考え方

■科学技術・テクノロジー
■事実・ファクト
■統計情報・データ分析
■客観的
■論理的
■法律・明文化された規範


また、人間から完全に感情や主観を排除できない場合は、政治などの重要な意思決定においては「感情が無いAI」によって自動化するなどの改善も考えていかなければなりません。

SNSなども人の感情や主観によるデマや陰謀論が発生しやすく、社会にとって有害な事が多いため、ある程度の規制をしていく必要もあるでしょう。

人類の社会運営において「立場」「主観」「感情」「バイアス」「ポジショントーク」が入り込まないような仕組みを構築していく必要があります。


現代社会において、情報の氾濫や主観的な情報が溢れる中で、客観的な視点からの分析と議論はますます重要性を増しています。

客観的な視点とは、特定の立場や感情に左右されることなく、事実やデータに基づいて物事を客観的に判断することを指します。これによって、真実を明らかにし、誤解や誤解を解消し、より良い判断や行動を行うことが可能となります。

例えば、政治の世界では、支持者や批判者の主観的な意見や感情が入り混じることが少なくありません。しかし、客観的なデータや事実をもとに政策や行動を評価することで、より公平で合理的な判断が可能となります。それによって、国民の信頼を得ることができ、より良い社会の実現につながるでしょう。

また、科学の世界でも客観的な視点が欠かせません。実験や観察を通じて得られた客観的なデータをもとに研究や議論が行われ、新たな知見や発見が生まれます。このような客観的なアプローチによって、科学の進歩や技術の発展が可能となり、私たちの生活や社会に多大な影響を与えています。


科学的なアプローチは、主観的であったり偏見に基づいたりすることなく、客観的な情報を提供し、客観的な意見や判断を形成する上での基盤となります。 科学的根拠とは、客観的に検証可能で再現可能なデータや実験結果に基づいています。これにより、私たちは客観的な真実を見出すことができ、その情報を信頼することができるのです。

科学は、観察、実験、論理的推論に基づいて知識を構築し、人々が確かな根拠を持って意思決定をすることを支援します。 信頼性の高い情報とは、客観的なデータや科学的な根拠に基づいていることを指します。

それは客観的であるだけでなく、信頼性が高いことも求められます。信頼性の高い情報は、データの正確さや再現性、実証可能性、反証可能性など科学的な方法に基づいて確認されるものです。


客観的な視点を保つためには、自らの主観を排除し、客観的なデータや事実に基づいて物事を捉える努力が欠かせません。 客観的な視点からの分析と議論は、真実を明らかにするだけでなく、誤解や偏見を取り除き、より建設的な議論や判断を促すことができます。

そのため、私たちが日常生活や社会活動において客観的な視点を大切にし、主観的な思考や感情に流されることなく、客観的なデータや事実をもとに判断を行うことが求められています。

これによって、よりフェアネス(公正)で合理的な社会の実現に向けて前進していくことができるでしょう。


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