【加筆修正】70年代へのロックの進化を促したザ・ビートルズの登場 ~ 60年代の音楽シーンを辿る旅 Vol.2
ロック史から見た場合の60年代
50年代に米国で生まれたロックンロール。
そこからの流れを辿ります。
1、1950年代米国でロックンロールが誕生(エルヴィス・プレスリー)
2、英国に飛び火。
3、1960年代英国の港町リバプールで世界的グループが誕生。
4、このグループが、ロック生誕の地である米国に逆輸入される。
これが第一次ブリティッシュ・インベイジョン(英国音楽の侵略)と呼ばれるムーブメントに至るまでの動きです。
この波に押され、米国でもロックンロールが、ポップスやオールディーズに変わって主流となり、やがて伝説的な黒人ギタリストを輩出するに至ります。
このギタリストは、公民権運動がさかんな米国では黒人ゆえに認められず。活動の場所を求めて、英国に渡り、再び英国に米国経由のブルーズ主体のロックを轟かせ、70年代の英国ロックの復興へと向かう。
といった10年の流れで、60年代は捉えることができます。
流れを振り返ると、このようになります。
1、1950年代米国でロックンロールが誕生(エルヴィス・プレスリー)
2、英国に飛び火。
3、1960年代英国の港町リバプールで世界的グループが誕生。
4、このグループが、ロック生誕の地である米国に逆輸入される。
5、1960年代米国でロックが大人気となる。
6、その米国で、伝説的黒人ギタリストが誕生する。
7、彼は活動の場所を求めて英国へ
8、彼のフォロワーが英国で多数出現し、70年代ロックムーブメントへ
今回、エルヴィス後の60年代のシーンを書くにあたり、以下の2つのアーチストを主軸に展開いたします。
まず、ビートルズについて。
60年代の世相と音楽の関係性
音楽(芸術)と世相は、互いに関係しあって成り立っています。特に60年代から70年代はベトナム戦争、日本では60年代末からの安保闘争などを背景に大きな芸術が生み出されていくことになります。
日本では、安保闘争の結果、反体制的な声を音にのせる若者が出て、それがあのフォークにつながっていきます。(岡林信康、井上陽水)
米国では、ベトナム戦争の果てに反戦の声が高まってきて、それがヒッピームーブメントの広まりとともに大きな勢力になっていきました。
この反戦の声を乗せるには、大音量のロックがぴったりだったわけです。(このあたりは、ジミ・ヘンドリクスの章にて。)
この60年代前半は、キューバ危機あり、いまだに安定しない核の脅威あり、冷戦の深化があり、その真っただ中でのケネディ暗殺があり。(奇遇にも前年、マリリン・モンローも死去)、、。。米国を含め全世界は混迷の中にありました。
人種問題も大きくクローズアップされてきた時代でした。人権復興の公民権運動も盛んになり、マルコムX、キング牧師らが活躍した時代でもあります。
人種問題は、30年代のビリー・ホリデイの「ストレンジフルーツ」という楽曲以前から、現代のBLMまで、変わらぬ問題としてくすぶっています。
また日本に視点を移すと、東京オリンピックが開催されたのは1964年。(昭和39年)。ここから東京はガラッと変化を遂げます。
戦後から進められていた、銀座や渋谷、池袋などの河川の暗渠化と、郊外への開発の拡大。都心部でも空き地の住宅地化がすすみました。首都高速も整備され、我々は日本橋上空の空を失ってしまった。
そんな時代を背景とした、音楽の流れ。
まず、ビートルズについて触れてみようと思います。
1960年代のリバプール
リバプールを旅したことがあるわけではありませんが、ビートルズゆかりの地の写真を収めた写真集を見て、実際にこの地を旅した気分になったことがあります。
写真ごとに、ちょっとした一文とタイトルがつけられていて、そのタイトルがビートルズやメンバーの楽曲のタイトルなんです。
例えば、後年ポールが住む別荘地の岬の写真には「Mull of Kintyre」、とあるリバプールの公園には「Strawberry Fields Forever」といった具合に。
その他、「Penny Lane」や「Abbey Road」などももあり、これもリバプールの地名ですね。
これを見ていると、ビートルズがいかに地元を愛していたのかが伝わってきます。
その彼らの地元リバプールは19世紀こそ帝国主義の中で発展していましたが、1940年代ごろより、主力産業も斜陽化し、50年ごろには街中には寂しい雰囲気が満ち溢れていたようです。ただ、60年代から70年代にかけて観光地としての再建を果たしていきました。
元々この町は港町であるため多種多様な文化もあったでしょうし、帝国主義の元で栄えていた時期もありますから歴史的建造物も多数あったでしょう。
ビートルズは、こういう街で産声を上げました。この街を創作のモチーフとしていました。
ブライアン・エプスタイン
ビートルズの初代マネジャーはブライアン・エプスタインという人物です。
礼儀作法、ライブでの一礼などの作法は、彼の手ほどきによるもの。
こういった彼の存在が経営的に、マーケティング的には未熟だったビートルズの大きな支えとなっていました。
後年、ビートルズがライブ活動をやめ、音楽編集に没頭していくようになるにつれて、マネージャーの存在が彼らにとって薄いものとなりました。その失意の中で彼は病死していきます。そして彼を失ったビートルズは迷走をはじめていきます。
そんなブライアンは、ビートルズのメンバーとどのように出会ったのでしょうか?
彼はリバプールでレコード店を営んでいました。きっと、職業柄その当時のホットな音楽や音を聞く機会に恵まれていて、耳も肥えていたのでしょう。
伝説のような実話があります。
ある日、とある青年がブライアンのレコード店を訪れて、デビュー前のビートルズがバックバンドとして参加していた「トニー・シェリダン」というアーチストのレコードを注文したんだそうです。
そのレコードの注文が、ブライアンがビートルズを知ったきっかけなのだそうです。
そんな風に、彼はこのバンドと出会いました。そしてライブが行われていたキャバーン・クラブへと趣き・・・・結果としてマネジャーとして、関わっていくことになります。
なお、このときレコード店を訪れた青年が誰かもわかっているようです。恐るべしビートルズ。そのあたりの顛末は↓の書籍に詳しいので、ご興味あればご一読を。
ジョン、少年時代のトラウマからの、、ロックへの目覚め
ジョン・レノンは、少年時代、両親の離婚に直面します。実の母もあまりよい母ではなかったようで、愛情はあるけれども生活は乱れていたようで、彼は長い時間を叔母の家で過ごすことが多くなっていきます。
こんな時代のトラウマを1970年代のファーストソロアルバムで、鐘の音とともに「Mother」で吐き出したわけですが。。。
そんな彼を虜にしたのは、アメリカ直輸入のロックンロールでした。
素晴らしいメロディではあるけれど、甘い調子のオールディーズよりも、多感な時期の若者を奮い立たせる魅力にあふれていたのでしょう。
彼は、演奏がまだ未熟な時代は、ほうきなどをつかってとりあえず演奏のまねごとをするスキッフルバンドを組み、それがやがて、きちんと楽器を演奏するクオリーメンというバンドに変わっていきます。
母との別れ、いくばくかの恋愛なども経て、彼は、どことなく大人びた精神を持った青年に成長していきます。
ジョンやポールをロックの波が襲った経緯は、↓の記事にまとめています。
初のレコーディング
ジョンの結成した「クオリーメン」に、ポール、ジョージが加わり、次第にビートルズとしての形を整えつつあった時期。
彼らは歴史的なレコーディングを行っています。
レコーディングスタジオで、世界で最初の彼らの声、そして音を録音しています。
この録音は1枚の78回転のレコード盤として残されました。
後年、ポールがこのレコードを保有している人物を見つけ、「それなりの」値段で買い取ります。それをビートルズ「アンソロジー1」の1曲目からの数曲として公開しています。
その曲は、「That'll Be The Day」、B面に「In Spite Of All The Danger」。
この録音の声を聴く限り、すでにジョンもポールも完成されていたということがわかります。歴史の出発地点の録音に立ち会えるのはなんと幸運なことでしょう。
このバンドには、のちに、初代ベーシストのスチュアート・サトクリフ、ドラマーのピート・ベストが加わり、バンド名も「シルヴァー・ビートルズ」から、そして「ザ・ビートルズ」へと変わっていきました。
そして熱狂と混乱のハンブルク武者修行に出て、さまざまな経験を積んでいき、、。やがて。。
ここに、ビートルズの原型ができあがったのです。
次回に続きます
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