主自分離:生きることを生身の体に委ねれば、心は翼を広げて自由を受け入れる

「自由」を考える人に捧ぐ。
「他責」「自責」どちらも生半可で不寛容だ。

キーワード:誕生、自由、精神、認識、現象、解釈、解放、無時間、脱時空間

「人間は自由の刑に処せられている…刑に処せられているというのは、人間は自分自身をつくったのではないからであり、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界のなかに投げだされたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。」ーサルトル

《誕生の形容》

この記事を読んでいるあなたは一般的に、過去のある時点で「誕生」し、それ以降数十年生きて、今日に至っている、と認識されていることだろう。

誕生:受肉:私はこれを「理不尽な幸福」「不可避の恩恵」と呼ぶ。
鳥が鳴き、雨が降り、地球が回り、日が昇るのと同じ自然現象の1つ。

その解釈は多様で{必然・奇跡・運命・定め・辻褄合わせ・慣性・媒体化・シミュレーション}などと形容される。どれも間違いではないのだろう。

ここでの問題は自然現象に、「意志」または「精神」などという、非物質的なものが付随していることだ

各々の肉体に付随した絶対的主観性(意識という名の機能)はその「誕生」に対してときに{不信感・違和感・無力感・虚無感・他責感・猜疑感}を抱き、ときに感謝し、高揚し、落胆し、ときに絶望を経験する。

《自由の刑の正体》

肉体は現実的で、精神は現象的で、意志は感覚的である。

存在の多様さ、確率分布の幅、自由さ、救われやすさで比べると

(不自由)肉体≦精神≦意志(自由)

意志が最もフレキシブル。融通が利き、自由だ。
要素は思念。時間は+0、未来志向の革命派

精神はいつも板挟み。身体と心に挟まれた場所、それこそが自己だ。
要素は言葉。時間は±0、今を楽しみ続けたい

肉体はどうも不自由だ。設計されていて、おもしろくない。
要素は物質。時間は-0、懐古的で保守的

つまり、肉体の不自由さの原因、それは、
「存在次元の異なるものを比較してしまったこと」

それゆえ、精神(自己)がその意志に介入しようとすると
「自由の奔流にさらされて苦痛を感じる。」
これを俗に「自由の刑」と呼ぶ。

住む世界が違うものを同居させたら軋轢が生れるのは当然のこと。

まったく、脳と現在はおバカさんだなぁ。
と+0の未来の私は-0の過去の私たちをあざ笑う。


《主自分離》

こうして私は、「認識可能な近過去(現実の自分)」「意識可能な近未来(意志の主体)」とを決別させた。

肉体は自然現象としての生を存分に楽しめるだろう。

精神は自己の檻から解放され、ついにその羽を広げる。

意志の手綱は放たれた。思うままにどこまででも飛んで行ける。

「自由の刑」:その罪状は、理性を過信し、相対性の名の下に、繋ぎえぬものを繋ぎ、己が存在をキメラ化し、諸要素の独立完全性を犯したことである。


《言語化可能な「私」の要素》

私:{物質、言葉、思念}
それぞれの存在が独立的に機能し、それらすべてが現実の肉体に余すことなく宿っている。

光:白:{赤、青、緑}
人間の目が採用した可視光の要素がこの3色というだけであって、「光」という存在は「場のゆらぎ」そのものであり、見えるものだけが全てでは全くない。

同じように「私」の要素も言語化するならばこの3要素が適当であろうと思われるだけであって、「私」という「場のゆらぎ=氣」は本来さらに幅を持った存在であることを受け入れねばなるまい。

キリスト教、あまり詳しく知らないが、キリストの三位一体(人、霊、神)もきっと似たようなことだろうと思う。


《まとめ》

「自由の刑」の発端は「理性による存在の冒涜」であることがわかった。
この罪を自覚し、反省したとき、人は自らの力によって、狭き檻から開放される。

「物質は非物質を宿し、存在は非存在を内包しうる。」


P.S.
目の前で話している人の意識が「今ここ」にあるのか、それとも彼はこの場をすでに経験しずっと先の未来を見ているのか、はたまた彼の意識はまだスタートを切っていないのかもしれないと疑問に思う時がある。

私が私しか経験できないというのは肉体オンリーの次元の話であって、
言葉を介して感情や想いを共有し、(愛)
心を介して時間や空間を超えて通じ合えるとしたら、(神、仏)
私の一部分世界の一部始終を知っているのかもしれないと思うと、
ゾクゾクする。


サポート額の内20%くらいはnote等への手数料になります。残りの80%くらいは一時的に私になり、すぐに通過して何処かへ行きます。でも、100%はあなたと私の記念になります。