ある戦国武将の出奔
長尾景虎 後の上杉謙信
士気の低下に加えて、自分の意見など聞いてくれず、勝手な振る舞いをする家臣たち、領地をめぐる一族間の争い、これらのことにすっかり嫌気がさしてしまった謙信は、弘治2年(1556)3月23日、突然に出家遁世の意向を諸将に告げます。 謙信にすれば、このような国の家臣団も守護代も未練も何もない、もうやってられるかという心境だったようです。師である天室光育に宛てた書状にも出家遁世を決めた謙信の心境がつづられています。その大意は 「私の一身上のことについて申し上げるのでご了承いただきたい。家臣たちは自分の心を全く理解してくれず、勝手な振る舞いをしており、もう私は国主の仕事を続ける自信はないので、出家して遠くから越後を見ようと思います。お歴々が話し合って円満にまとめれば、この国も日々を追って安泰になるでしょう。私の気持ちだけはお分かり頂けたと思います。この旨をお歴々へお話いただければ幸いです」 もう勝手にするがいいと、何もかも放り投げたような書き方ですが、謙信の本心は、「本当にこれでいいのか、あとはどうなっても知らないぞ」、と問いかけたものでしょう。 これに最も慌てたのは坂戸城主の長尾政景であり、政景は(謙信は紀州高野山に向かうつもりだったという)謙信を妙高山の麓にある修験寺関山権現で発見し、「逃げた」という言葉を使ってまで謙信を説得し、謙信もこの説得に応じて出家遁世を断念します。 「歴代古案」に残る謙信の書状には、このときのことを「弓矢を逃れ候様に自他ども批判これ有るべからず」とあります。 ただ謙信は国内の豪族が誓詞を入れて必ず自分に服従すること、人質を出すことを条件に出し、これを認めさせています。
ジャルジェ註
現在の史実では唯一 他国の領地を奪わず領民から掠奪をしなかった戦国時代の武将
領民 一族 家来の豪族 全てに公平で優しい武将の最終兵器は自ら退くことで周囲に気づかせることでした。