「箕輪の剣」第9話
第9話 小田原へ
年が明けた。
越後勢は古河をめざした。ここは、古河公方足利義氏の御所がある。長尾景虎は足利義氏討伐を命じていた。義氏の母は北条氏、傀儡の古河御所だ。腹違いの兄弟・藤氏こそ正統という声に景虎が応じたのである。これを支持したのは、随行する関白近衛前久だ。
義氏は戦わずして逃亡した。古河を抑えた越後勢は、武蔵国を蹂躙していった。まるで、無人の野を行くが如し、だった。松山城も、たちまち陥落した。時間を稼ぐことも許されぬ、怒涛の進軍だ。
二月二七日、長尾景虎は鎌倉に達した。ここで北条討伐の願文を掲げ、越後勢は関東の諸将を糾合し、軍を分散して、小田原へと向かった。
小田原包囲の軍勢は、辛くも間に合った土塁に阻まれて、容易に先へ進むことが出来ずにいた。それでも少しずつ切り崩し、越後勢は城下へと進んだ。
長尾景虎に同心する関東の諸将は、北条家へ積年の恨みを抱く者ばかりだ。里見勢も、このなかにいた。
「長野信濃守殿」
陣中を訪れたのは、里見義堯と正木時茂だった。
「文悟丸は息災だろうか」
義堯とて人の子の親、心配なのだ。
「ご安心あれ」
長野業政は微笑み、長尾景虎に里見義堯を紹介した。長年、関東出兵を訴えてきた武将は、期待通りの勇ましい面魂だと、長尾景虎は破顔した。
「里見は絶対に北条と慣れあいなどしません。倒すか、倒されるか。終生、このことを誓いましょう」
「たのもし」
「長尾弾正様に御目もち適い、有難き事なり」
里見義堯は、この言葉通り、生涯ただ一度も北条と和睦することなく過ごした。戦略的に一時和睦をしたのは、義堯の死後、次の代のことだから、よほどの反骨心を抱く武将だったことが知れる。
正木時茂は些か老いた風だった。
「お加減が?」
上泉秀綱は言葉をかけた。
「病だな」
「なんと」
「この小田原遠征が、最後の出陣と思うている」
「滅多なことを」
上泉秀綱は残念でならなかった。あれほどの武辺者も、病には勝てない。これは、他人事ではなかった。
「くまのこと、誤解していよう?」
正木時茂の言葉は唐突だった。
「くま?」
「そなたのところに預かる経緯、我が筋書きであった。くまは、儂がそなたの家来となるよう、絵を描いた者だ」
「ならば、くまは正木大膳殿の」
「乱波じゃ」
そうか、くまはあの夜、上泉秀綱に見られたことを知っていたのだ。そのことを正木時茂に報せ、知らぬ顔で務めるよう指図されたのだろう。
「文悟丸様の御様子を伝えてもらったまで。長野の家のことは探らせておらぬ。安心してくれ」
「そうであったか」
くまは新陰流を習いつつ、文悟丸の世話も務めていた。こういう報せのために、自然な役に誘導されていたのだ。まんまと、上泉秀綱は乗せられただけに過ぎない。
「くまを咎めませぬ、ご安心あれ」
「すまない」
「何か、言付は?」
正木時茂は少し考えて
「我が死後は、乱波の任を解くものなり。そののちは誠心誠意、長野の御家だけに奉公せよと」
「承知仕った」
小田原城包囲は、閏三月に解かれた。
鎌倉鶴岡八幡宮。ここで、長尾景虎は上杉憲政の養子となり、関東管領として就任するための古式に則った式典を挙行した。このとき長尾景虎は、上杉憲政より一字を賜り〈上杉政虎〉と名を改めた。
関東を疾風のように荒らした越後勢は、やがて、雪解けの越後へと去っていった。
越後勢はこののち、ほぼ毎年のように越山し、関東の北条勢と戦う。
越後勢が去って間もなく、長野業政は病に倒れた。