どんな言葉にも、「良い意味」と「悪い意味」、「善悪含まない意味」が、発する本人の意思に関わらず含まれています。 これは抑うつ傾向と関連性があります。 つまり抑うつ傾向が高いと「ありがとう」も悪い意味に捉えるということですね。 抑うつ傾向が低いと嫌味も良い意味に捉えます。
最初に知ったのは知識ではなく 自分の体のことだった気がする。 目が悪い、風邪引いたら長引く、体は柔らなくない、こんな調子のときいい感じ、こんな調子のときやばい そんな感じだった気がする
自己精神的にバランスに疑問抱いたら 心がなにをしたいか 体の気持ちはなにか 脳はどうすると言っているのか の3つでまとめるといい。 心は体を促し 体は脳に相談して 脳ができることを心と体に伝える 心は能動的で 体は中動態的で 脳は受動的に能動する 知ることの根元。
能力や知能が濃いと悪いところを良くできて、良いところを伸ばせます。 一方、能力や知能が薄いと良いところは伸ばせますが、悪いところは良くする能力が薄いので、悪いところは良くできません。 能力や知能が薄い人に改善を求めることは合理性が低いです。
諦めるのは【知能の問題】ではなく、モチベーションの自己コントロールの欠如、欠落です。 相手方には関係がありません。 諦めてしまうのなら、それは諦める人のマインドです。諦観するマインドを持ってるからです。
人の気持ちを考えなくてもいいです。 分かることはないと思いましょう。 人の言葉をわかるようにする。 そして言葉の意味を合わす。 人の気持ちがわからなくても言葉の意味を知る。 そこができないなら【知能の問題】です。 英語にスワヒリ語で応戦してもそれぞれの知能の種類が違う
自己の気持ちしか考えない人同士で喧嘩するから、人の気持ち考えない者だってお互いに思う。 どうせ気持ちがわかりあうことはないので 言葉の意味でわかりましょう。 人の気持ちなんて考えなくていいし、自己の気持ちなんて考えなくていいんです。
身体能力は 記憶→想起→感覚→体感→対応→達成 ナッシュ均衡は筋肉とかバネで体感辺りに来る。
考えてナッシュ均衡は来たときに知能が現れる。これは想像と創造を組みたてて知能として機能する。 想起はナッシュ均衡にくるまでに学習能力の力を持って向かうもの。 シンプルに考えるなら 学習能力→想起→ナッシュ均衡→想像と創造→知能 となる。 しかしながら身体能力は別の要素。
テーマ 想起 知能 ナッシュ均衡 これでなんかたどり着けそう。 学力は想起であり知能ではない。 ナッシュ均衡から知能の本筋が出てくる。 《11/15 17:22 加筆》 よって学習能力は知能ではないな。 ここから仮説、学習能力は知能であるが作られる。
直感とは、知能の種類の多さと知能数量からくるピースのはまる場所探知機のようなものだと思う。 なので【知能の問題】があれば直感が働かない宿命です。
親子の間における、この子の変化や成長は他の人に理解できなくてもいい感覚と、 天才の内面における主観的自己と客観的自己の感覚は 恐らく似ている 前者は二人称関係で、後者は一人称完結での違いがある。
天使と悪魔がいるんじゃない。 人間とお前がいるんだ。人間になるのかお前になるのか決めろ!
人生とは、才能の敵にならないこと
誹謗はされた方に責任はないけど、 誹謗中傷されて傷つく人は原因。 誹謗はされても中傷には至らないもの。 誹謗で傷つくなら自己責任だと思います。 偽善者です。 傷つくのは事実と現実です。 それ以外で傷つくのは悪質性が含まれてると思います。
シンギュラリティはもうこないようです。 諦めるしかなさそうです。 集団はシンギュラリティのゲシュタルトに近づかない形の中心しかなかったようです。 もう無理です、とシンギュラリティの創成者に見限られたような気がします。 今後、集団組織でシンギュラリティの話題は無意味です。
世間を気にしないって境地は、世界の省略に近くてもう用済みな気持ちにも近い。 ある程度過去の物、過去の産物の意味合いが近くて思い出になってもすぐ捨てれるような気持ちです。 少なくとも、私が好きなもの>世間、なので世間を対価に何かできる感覚です。 個人シンギュラリティです。他無
世間に興味がなくなりました。 大事なものではないってことですね。 そんなんじゃダメだ!って思うのは、世間外の幸福、福祉の否定を半分含みます。 また個人の否定も含みます。 肯定できるのは無知だけですね。そして協調性が低い。 世間にあわせることは大谷翔平のレベルを否定すること。
すぐ出来て仕組みはわからないより、 少しずつ出来て仕組みも少しずつ理解出来る方が能力は高い。 能力は頭脳とか頭がいいとかではないです。
頭が普通であるということは、経験や慣れさえすれば上達すると確信できてる能力のこと、だと思ってます。 頭がよすぎるも頭がいいも、頭が普通なことが多い。
新たな楽しみを作ろうとする人は、人間性や性格がやや怪しくても頼りにされます。
『前に進もう!』と言った時には前には進んでいない。 気持ちだけで前に進むとは言わないからです。
結婚と幸せに因果関係はなく、結婚生活に幸せ要素がある。 理想通りの結婚生活は中々ない。都合通りであることはほぼない。 なので幸せは結婚して感じるものではない。 これは、私のいた家庭環境に幸福が無かったことに由来する考え方。
歪みが怪しいというものは、寛解ベクトル。 歪みある人は、他人(外部要因)の寛解を怪しむ。 向かえてないものだから。 歪む人に個人はいなく、集団やコミュニティ、社会にいることが多い。 個人が歪んでるように見えるのは、その歪んでる個人が社会のなかにいる(信じてる)から。
寛解のために外部に影響を与えるものは寛解ではなく歪み。 外部要因に原因を置いてる状態で精神的に重篤で危篤な状態。 寛解とは逆ベクトル。 治癒実感は、比較であの人よりマシというカースト的でマウント的な実感。 依存症や中毒に依っている。
精神のバランス崩したら脱落なのではなくて、アンバランスをバランスに変容していく様相が寛解
想いは間違いで、知能が関係します。 歪曲しても正しいものは正しい。 但し、歪曲したあとは不正です。正しくないので、歪みです。 歪曲自体が不正ですから。 知能が普通レベルではなくマジョリティなら問題なく歪曲者そのものです。
勘違いする人は想いを気持ちと間違えます。 歪んでる人のモデルとして相応しいくらいです。 想いは想い込なので、正しくないのですが、過ちを侵す人は不正を正しいと想い込みます。 想い込んでるので当然です。
精神医学的に歪みってなにか考えると 感情を気持ちと見間違えたり、わざと感情を気持ちだとバイアスをかけることによって育まれると考えられます。 感情は歪みの原因です。 それは気持ちではありません。 怒りが沸くのは気持ちではないのです。
顔が赤くなるのが【気持ち】 日焼けするってのは【感情】 顔が赤くなるのは可愛いですけど、肌色に戻せます。 けれど日焼けは可愛いですけど、美白にはなりません。ただ健康的な肌色のままです。変わりません。 感情と向き合うのではなくて気持ち見たい。
仕事は囲碁ではないです。 しかしながら「仕事してます。」って言って囲碁してることに無自覚な社会人はいます。 そして短くしないと理解しない、集中できない社会人はそもそも社会能力が低いということです。 なので囲碁するのです。 が囲碁が上手いと社会能力が高いと勘違いします。
実績が経験した時間と回数だけなら、過去の時間は無駄。 意味:1万時間の法則あれど、集中しない1万時間は0秒の特訓と同じ。 なので、これだけ経験したという人がいても得たものが何もないので過去の経験と時間は浪費しただけの徒労ということ。 得たのは自慢するスキルだけ。
宗教に関わるのは、負い目がある人。 負い目がない人は宗教に関わらない。 関わらない人に迷惑をかけたら、宗教が嫌いになる。
還る場所も帰る場所もない自分には敵も味方もありません。 なので敵対心向けてくる人にはミステリーを感じます。 ちなみに住んでる場所はしっかりと帰宅する場所としてあります。
現実より社会が美しい 社会より現実が美しい どっちを感じるかで違いますよね。 前者だと「何で私たちだけが…」となりやすいと思います。現実とは違うから。 後者だと「理解はするけど納得しない」というのはあると思います。社会的な答えに納得できないから。
評価されない時間が人間らしさ 無関心でいられて注意を向けられない。その時に不安にならないのが個人が成立してるということかな?と直感的には思います。
個人が成立すると繋がりが依存性を持たないかなと思います。 繋がりが依存性を持つ可能性があるから、一概に依存の対義語は繋がりと呼べないです。
ラットパーク実験は繋がりが大事というより、繋がったら受動態になっていく、の方が近いのかなと思いました。