正規分布で言うと 【高次フレームワーク】一般 【中次フレームワーク】通常以下(若しくは通常) 【低次フレームワーク】通常以下未満(若しくは通常未満) となります。 これが理想で、これが崩れると賢さが優位とならないので閉塞性が高くなり成長性が低くなります。 その場合終活の理想。
いかに他人はバイアスを持ってるじゃ? 思い込みと決めつけによる読解は、理解は高くない。
善と悪があるわけではなく 良いと悪いがあるわけではなく 良いがなくて普通があって 悪いがなくて足りないがある。 普通と足りないがあってあと特別特殊がある。 それが世界そのもの。
サッカーだとボールを持つときでIQ(個人技だから)を活かし(つつ)、周りを見るのがEQ(視野や状況判断する)、鼓舞や声出しがSQ(モチベーションに関わる。) 野球と違い、攻守が分かれてないので基本サッカーは中動態のスポーツで、IQ(個人技)活かすときでもEQ(視野)が必要。
https://note.com/lagrelativity/n/n4ee9164ae3d6
自律って大抵精神的自律のことで、経済的自立の自立とは〈明確で詳しい〉違いがあるけれど、 精神的自律には気遣うものと気遣わない自律がある。 気遣うものは思いやりとかの言葉で表現される。 気遣わない精神的自律には、中々言葉が割り振られない。
自覚能力が持てないヒトほど、勘違いと錯誤と逆恨みと責任転嫁と暴走をするので、自覚能力が持てないヒトほど責任と負担が優先されるべきだと思います。 そうしないと有能なことが未来にならないです。言葉も含めて。
計算できる人に過ちありますが、 学習できる人に過ちはありません。 揚げ足とることは論理学で論理的ではなく、論理学は言葉での表現の限界を知る学問です。 論理的には矛盾はありません。論理学はすべてを言葉で表現するので矛盾が生まれます。 計算高いだけなら過ちに気づきません。
計算高いだけなら過ちに気づかないなら、自覚能力が伴ってない、ということで学習能力を語るとき自覚能力も語らざる負えません。 計算能力には自覚能力の有無があり、学習能力なら自覚能力の有無がありません。 よって計算能力と学習能力は違います。
感情の知能指数は5つの構成要素は5つの能力とは違うのか? 感情の知能ではなくて、知能を感情に活かせる能力で、感情の知能指数ではないのでは? 知能の感情応用と何が違うのか? 感情が中心ではなく、IQを感情や情緒(emotional)に活かしたものかEQ、感情の知能指数では?
情緒的知性(感情的知性)なのか、感情の知能指数なのか。EIなのかEQなのか。 情緒的知性は4つの能力で良いのか?では、情緒的能力群であって知性ではないのでは? 感情的機能では?機能は知性? 4つのうち活かす活かさないの能動的意識の判断によるものは枝分かれしないのか?
判断能力が通常以下だと、自覚能力のないことに否定しなくなるので、自覚能力のないことがmajorityになる。 多数決なシステム(社会の歪み)はそのように出来ている。 自覚能力があって判断能力があることはminority側でしかなくなる。 通常以下は普通ではなく一般でもない。
感情的(情緒的)知性では、感情や情緒が主語や中心だが 感情の知能指数では、知能が主語や中心であるのでは? 感情はあくまでも副次的な要素で、感情関係の知能の使い方でしかないのでは? ここに論理学のような言葉のあやがあるのでは?同じ感情という言葉でも主導と主導じゃない差異がある?
多重パーソナリティー障碍や解離性同一性障碍については、まずそのヒトの本体(主人格)を知ってるの?ってこと。 まず本体知らない人が他人のこと多重や解離性や言っても大雑把だ。 なんなら主人格という考え方自体が錯誤あるけど、昔の言葉はやめて新しく本体とか言った方が格の悪用少なくなる
【相互能力】が1になろうとも、【社会的能力】が狭く、相互能力を1にできる【理解位置】が相互能力に届かなければ仮想的で下層的な1にしかならず、実質においては【相互能力】は0の状態で保たれる。 ①この状態の共感は合わせてるだけで理解はしていない。 ②否定せずにいると寛解志向になる
どんな言葉にも、「良い意味」と「悪い意味」、「善悪含まない意味」が、発する本人の意思に関わらず含まれています。 これは抑うつ傾向と関連性があります。 つまり抑うつ傾向が高いと「ありがとう」も悪い意味に捉えるということですね。 抑うつ傾向が低いと嫌味も良い意味に捉えます。
故に無知も知りたいことを作為的に故意に作れば勉強家(努力家)になる。 けれど作る技量は無知にはないので、勉強家が無知に対して作る事が多い。 天才に影響受けた無知は化ける可能性はあるが、勉強家は化けにくい。 それは作為的に故意に作るのとは違い、天才からの影響は作為的じゃないから
知るのが怖いなら安心感はなくていいヒト。 不知が不安を強めるのは精神医学の常識。 暴露法はその極値の療法。 向かい合うより逃げてた方が怖い。 知りたくないなら不安と親友。 知るなら安心感と親友。 知りたいならスライムと親友。 怖いのが知ることなら無知で不安と寄り添いだ
天才は何も知らないのにポツンと言葉にならん段階で頭の片隅に本当に知りたいことみたいなのある。 勉強家は知りたいことを作ってる。作為的かつ故意に。 無知は本当に知りたいことも知りたいことも作ってない。 だから向かう場所なくそのための論理がなくて、論理思考を作る脳回路がない感じ
勉強は努力を知る為のもの 学習は楽しさを知っている為のもの 勢いは何も知らないから持てるもの
感情には喜怒哀楽等あるが 喜びは普通に対する鈍感 怒りは事情に対する鈍感 哀しみは弱さに対する鈍感 楽しいは努力に対する鈍感 であったりする。 感情が軸になるのは総合力の不足を表す。
感情は理解できない事(現実への鈍感)の実感を苦しみや構ってちゃん身体反応に変えたもので、そこからモラル(知能)に結び付かせる機構(システム)と成ってる。 しばしばヒステリックがルールや道徳から来るのはこの為。 それは理解されないために感情が過剰化するが、思考では理解していない。
無知(不知)は、天才的(学習)が軸としてるものを感情に変えたモノと見ることができる。 しかし相似とまでいかない。 感情に知的意味や論理的意味はないので、割り切りとか一時的な次に繋がらない点で天才的の軸と違う。 その為に一時的な風のような勢いにしかならず、それは明日に関係しない
努力の天才と言うヒトは勉強家(努力)であり、天才的(学習)ではない。努力の末、天才になったと思うからだ。 しかし知的好奇心は努力ではない。 自分に言い聞かせて努力してるわけではなく、考えなくても出てきた可能性を軸に動く事が日常で習慣だからだ。動き出すエネルギーはない。
天才(学習)タイプ 努力(勉強)タイプ 無知(不知)タイプがいて 学習は知的好奇心を軸に 勉強は努力を軸に 不知は風力を軸に進む。 学習は両手に道具があり 勉強は片手に道具がある。 不知は道具がない。 学習は拡がり 勉強は狭く集中して 不知は勢いだけ その差異で成果が出る
共感より理解タイプと理解より共感タイプと理解だけタイプと共感だけタイプとなんでもいいというタイプ この5つぐらいが共感タイプのほとんど占める
『○○過ぎる』を言うのを我慢して『○○が良い』というのも『○○過ぎる』と同じ意味 通常『○○過ぎる』=通常『○○が良い』(我慢して言うことが多い) 無駄な苦労するために通常は執着する。
通常『理解が高すぎる』=一般『普通に理解できてる』 通常以下の『○○過ぎる』は一般での『普通』だ。 過ぎると思うなら、【普通に届いてない状態】なので謙虚になるとか真摯になるとかじゃないと受け留める以上にはならない。
エモーショナルインテリジェンスが言いたいことは、感情は邪魔者だから無くしたいけど無くせないから飼い慣らせ!ってことだけど 賢いならそもそも感情はほぼなく優しい。 なのでEQなどないので、EI言ってる時点で賢くないけど、邪魔しないでねbabyということだ。
ダニエル・ゴールマン氏のEI(エモーショナルインテリジェンス)はヒステリックのスキルで、ヒステリック以外はマズローの生理的欲求の段階と同じだ。 ヒステリック以外にとってEIはただのリスクが自己中心的なリスク軽減によって偽善的に振る舞う暴動体でしかない。 その段階は初歩で抜けば必無
ダニエル・ゴールマン氏のエモーショナルインテリジェンス(EI、感情的知能、感情の自己コントロール、SQだと他者の感情のコントロール)は 、そもそもEIが要らない状況が一番好ましく、EIが必要ないときが最善でEIが必要な状況は常に次善手である。 SQの他者コンは他者のEQのお陰だ
注文が何かわかるのが思考力 注文が何でかわかるのが論理思考力 注文がラーメンだとわかるのが思考力。 注文が温かいものばかりなのは今日は雨が降っていて体が冷えやすいからご飯物より熱いスープも飲めるラーメンが注文されたとわかるのが論理思考力。 かかる時間は同じ。
烏合のことは8割で大雑把にいえる。 烏合以外は2割で大雑把と的確が言える。 しかし大雑把は烏合用で、本当は的確しかない。 的確だと理解までされない。 烏合以外が周りを気にしなかったり、烏合に理解されないのはこの為。
答えを求めなくなってくると考えは広くなるけど、思考の伸長が狭くなる。 芸術美術分野はこうなりがち。 岡本太郎さんのように決めつけでも広範囲をカバーする言葉を答えとしたとき、広くなりつつ思考が到達していく。
冷たくて楽しいことと温かくて退屈なことか。 大雑把に言って状況はこの範囲。 2と2で進むが、8割がこのふたつで2割が別のふたつ。 8割なのに2割と偽ると意地悪と粗悪が成り立つ。 偽らないことを偽るところは必ず見えてるのが普通。 引きこもりは温かく退屈が大雑把に大体これ。