劣等感とは
『○○のくせに』
よく聞く言葉です。
『○○なのに』
こう変えると期待が入ってることがわかります。
前者では比較があります。比べて『○○のくせに』と言うのです。そして、どちらかというと見下しています。上から目線ということです。上下で比べてます。
そして、否定的です。
では『○○なのに』はどうでしょう?
これは何かを比べてるでしょうか?
これには、比べずにリスペクトしながら、期待外れなことが起きたことを想像できます。
それは、言ってる本人と誰かを比べてるようには聞こえません。
だから、『○○なのに』という言い方には劣等感のような比べて劣る、比べて優れるという意味合いや概念、気持ちは特に含まれてません。
劣等感ある人は、無意識的及び意識的にせよ他人と比べる癖があります。
『(私はあの人より下手)』『(私はあの人より可愛くない)』『(私はあの人より馬鹿だ)』などです。
これが投影(防衛機制)されると、『○○のくせに』と逆の関係で表現されます。
『(あの人は私より下手)』『(あの人は私より可愛くない)』『(あの人は私より馬鹿だ)』みたいにです。
『○○なのに』だと、比べることなく、あの人本人についてのみ表現されています。
『(あの人は下手)』『(あの人は可愛くない)』『(あの人は馬鹿だ)』と、私がいなく比べません。
劣等感の大前提は【比べること】
『○○なのに』はその人本人に目線が合っています。
比べてないなら劣等感は表れません。
これは自他のパウンダリー(境界線)がしっかりある状態で、劣等感ある場合は自他のパウンダリーがファジー(曖昧、ファジーネーブルのファジー)で、私という主体が私以外と比べて、近づく遠くなるという不安定な状態です。
安定するということは、自他の区別がつくことです。
不安は自他の区別がファジーであることから来ます。
大人とはこの区別が出来ることで決めつけること(上下や優劣など)ではないのです。
ですが、不安定は不安定で楽しめるものです。それはできるだけ自分自身、私自身がチョイスできて決めて進めればより楽しめるのだと思います。
オタクなんかはこのプロですよ、多分。