学習能力について

学習能力は理解のために存在する。

学習能力→記憶+論理+整理整頓+読解=理解

学習能力は記憶し論理的に考え整理して理解のために読み解く。
そして、整頓し新たに記憶し論理的に考え整理整頓して理解のために読み解いて整理するの循環で行われてる。

学習の為の記憶


記憶は無意図によるもの意図的に行うものとがある。しかしながらそこに差異が生まれるならそれは意図的に行うものの中にある。

「記憶とは記憶A記憶B。記憶Aには意図含まない。記憶Bには記憶B1と記憶B2がありその差は」

意図的記憶には内因と外因がある。内発的動機付けと外発的動機付けのことです。
か学習においても内発的には歪みが少なく歪さも少ない。転びそうな段差もないような状態の学習となります。

(2025/01/25 13:21 補足)

《学習においても内発的には歪みが少なく歪(いびつ)さも少ない。転びそうな段差もないような状態の学習となります。》


他方、外発的においては異なります。なぜなら邪な理由から来ることが多いからです。報酬の為、利益の為、承認欲求の為、社会内外における必要性の為等あります。つまりは単純に目的があって理解しなければいけないことだからです。それは各個人の能力に関わらず学習します。なのて成果はまちまちまばらで一定水準なんてありません。手段として理解が必要な部類です。

内発的は理解が目的になるように自己内部での自己コントロールという名の自己を納得させる自己洗脳によって動機付けがなされます。
この自己コントロールに陶酔(集中でも代替え可能)出来れば出来るほど学習ができます。
寧ろ踊れなければ陶酔出来ないので内発的動機付けによっても学習が円滑には進みません。
そのときには外発的動機付けが行われることがあります。あくまでも学習において外発的動機付けは最後の受け皿として機能していて受け皿が機能しなければ学習しない勉強不足となります。

勿論想像通りの理想通りの興味関心だけによる内発的動機付けもあり、これは陶酔なく踊る状態でゾーンと似たような状態による学習です。

「その差は内因と外因だ。記憶B1と記憶B2の内因の記憶B2にはゾーン内発と一般内発とがありそれぞれ記憶B2αと記憶B2βとする。」

どちらの記憶にしろ【学習の為の素朴データ】です。


学習の為の論理性


記憶したら何をやるでしょう?
記憶は有用か無用かに関わらず記憶するもので、記憶が間違ってたり、学習の為に必要ないものもあるので捨てます。
それで使うものが論理力になります。
学習の為に必要なものは、記憶の中で乱数のようにまとまっておらず散らかしてる状態です。それらを分別仕分けします。
それを整理整頓しやすい形状にまとめていくことになります。
尚、エピソード記憶のようになってるものは、次の学習の為の形に組み換えて組み立てます。
どんなに言葉が合っていても文法があっていないと伝わりにくい文章になります。
この赤いは林檎より、この林檎は赤いの方が文法的に解りやすいです。AIだと前者のようになりやすかったですが改善されてます。
このように組み立て直して、次の整理や整頓に移っていきます。

「論理Aの為の記銘Aを作る為に記憶群から記銘Aが作られます。これらの論理と記銘がたくさんあります。」


学習の為の整理整頓


論理力を活かして理解の為の要素を前項で作られたら、整理整頓して構成していきます。
これは【集合とは呼ばず構成】です。
ここの整理整頓の仕方において個人差が出ます。個人差は記憶の段階からあるにはありますがそこでは能力の差異でここの段階だと個性の差異、特性の差異となります。

(2025/01/25 14:13 補足)

※個人差は
【記憶の段階の差異→能力の差異】
【整理整頓の段階の差異→個性や特性の差異】

「複数の論理(A~)と記銘(A~)をそれぞれ相似、相同で区別する。」


学習の為の読解


ここでは公式を当てはめるように理解の為に読み解いていきます。
学習は理解の為ですから、数学の問題を解くようにできます。AIはこの段階だと迅速に合理的になれますが、その前の段階までは個性や特性などの個人差なので集合知はあてにはなりません。
そして創造力が必要になります。創造力は人類共通のものはありませんので個性や特性による個人差になります。集合にはなりません。

「理解Aが作られる。整理整頓の仕方によって理解Bも作れる。これは個人Aの中で理解Aも理解Bも作れるという意味です。」

【多角的多面的側面。1+1の答えのように多面的に。】

学習の為の理解

学習を形にした場合、アルキメデスのスクリューのようなDNAの螺旋構造のようになります。
単純理解学習だと(コイル)バネのような螺旋を伸ばす形になります。
複雑理解学習ではそれが個人差によって何重にもなります。

それはつまり遠くから見ると直線だが近くで見ると【ぐるぐると右往左往、試行錯誤しながら理解へ進んでいる】、ということです。
学習はそのように諦めてないことの証明、QED証明完了を表してると信じています。


【学習に真っ直ぐ進むものはない。立ち止まったり袋小路に迷うことを厭わないときに出来る前進だ!!!】

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