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明応8年(1499)1月30日は畠山尚順が畠山義豊を河内十七箇所で破り自害させた日。尚順の父政長と義豊の父義就の家督争いは応仁の乱の原因の一つとも。義就の死後に将軍義材による義豊討伐の際に起きた明応の政変で政長が自害に追い込まれ尚順は紀州へ逃亡。反撃の末に義豊を死に追いやった。

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■【より道‐101】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「畠山騒乱」

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畠山義就の命日(12/12)に応仁の乱の実態を解説

応仁の乱の動画(高校レベル&文学部レベル)

文明17年(1485)12月11日は山城国人や百姓らが畠山政長・義就両軍の戦闘停止と撤退などを要求し山城国一揆が成立した日。南山城で60歳から15~16歳までの国人が集まり地侍や百姓が見守る大規模な集会がもたれた結果。南山城3郡は以後8年にわたる自治体制を維持することになる。