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京住日誌 29日目

 1466年(文正元年)は畠山義就にとって大きな転機となった年だ。それは京における政治勢力のパワーバランスの変化に因るものである。歴史の教科書を開けばこの年(文正元年)は文正の政変があった年である。
ことの起こりは前年末に足利義政に待望の男子(義尚)が生まれたことだった。本来なら慶事だが、既に義政は弟の足利義視を次期将軍に指名していたから、単にめでたい話では済まなくなっていた。何せ将軍家の家督継承だからさまざまなの人や家に影響を与えるのは避けられず、彼らの思惑も入り乱れ、事態はさらに複雑化する。少し時計の針を戻して1465年(寛正6年)11月、足利義尚誕生時の様相を当時の新聞各紙等で確認してみよう。

①「官版 室町TIMES」(政府系新聞)
すこやか、足利家待望の男子ご誕生

 昨日午後3時20分.足利義政、富子ご夫妻に待望の男の子がお生まれになった。体重2.7キロ、身長48センチのと堂々たる体格。母子共に健康で力強い産声を挙げてのご生誕に未来の安寧を予感させる。ここ数日間、不眠不休で出産に当たってきた看護チームからも安堵の声と共に拍手が湧き上がる。相国寺に篭られ一心不乱に無事の出産を祈られていた義政さまに伊勢貞親の使者の者がすぐ朗報をお伝えする。この時はあえて男の子であることは伏せられ、義政さまもお聞きにならない。足早に室町殿に戻られた義政さまを満面の笑みでお迎えになる貞親殿。その笑顔を見て何もかも察知した義政は貞親殿とグータッチ。2人の絆の深さが垣間見られた瞬間だ。本誌も含め、各紙は市内に号外を配り、市内も祝賀ムード一色だ。そして管領家、四職家などからのお祝いのメッセージがお祝いの品々と共々室町邸へと続々と届き、門番たちは大忙しだ。義政様は細川勝元氏からの「黄金の乳母車」を殊の外喜ばれた。なお、来週には命名の儀が内裏で行われる予定であることも伊勢貞親殿から発表された。それまでは朝廷の慣例に倣い、ご嫡男は「新宮さま」と呼ばれる。
義政さま談話:率直に言って男の子であったのでホッと一安心だ。弟の義視も喜んでくれているのが何より嬉しい。妻の富子には「でかした!」と一言声をかけた。
寺に籠り、精進していたので、今夜は精進落としをしたい。まずは祝い酒だ。
義視さま談話:長年兄が男の子を望んでいたことはよく分かっていたので、我が事のように嬉しいのが本音だ。真っ先にお祝いを申し上げに妻良子と共に室町邸へ伺った。富子さまと共にお生まれになったばかりの赤ちゃんにもお目にかかった。文字通り玉のような男の子だった。家督問題?足利家は畠山家のようにはならない。兄への信頼はこれまでもこれからも変わらないし、兄は約束を守るお方だ。余計な邪推は慎んでもらいたい。
1465年(寛正6)11月24日朝刊

②「ほぼ毎日SADACHIKA新聞 社説」

【社説】
 とにかくめでたい日だ。ついに、そして待望の男子のご生誕である。まずは義政さま、そして奥様の富子さまに、心からのお祝いを申し上げたい。長く義政様をお見守りもうしあげてきた身からすると否が応でも30年前の義政さまがご誕生された時のことを思い出し、涙を抑えることができない。ありきたりな言葉だが、ただただ感無量である。とは言え義政様は次男でいらっしゃった。ご嫡男誕生の今日の感激とは比較にならないのもまた本音である。そして新宮さま(命名の儀は来週行われる)のこれからの安寧を祈らずにはいられない。
 思えば、義政様は5歳の時、父を思いもかけない形で亡くされた。その後、家督を継がれた義勝様もご病気によりご逝去され、わずか8歳で将軍家の家長となられた。その後のご苦労とご活躍は周知のところだ。おそらく義政さまは今回の男子誕生でホッとひと息肩の荷が降りたというのが本音だろう。そして義政さまのためにも将軍家の家督継承は嫡男主義を大原則とすべきである。一部で噂されている義視さまへのワンポイントリリーフはあり得ない。新たな紛争の火種になることは間違いない。それは畠山家の家督争いを見ても明らかであろう。幕政の安定のためにも将軍家家督継承問題に先送りは許されるない。待ったなしだ。そのためにこの貞親、老体に鞭打ち、もうひと暴れする決意であることをここに表明するものである。(主筆 伊勢貞親 記)
1465年11月24日社説

③「山名い雨はないTIMES」

【社説】
慶事である。しかしながら、忘れてはならないのは足利義政さま最初のご長男は誕生直後に夭折されたことだ。幸い今回は母子共にご健康とのことでまずはホッと一安心だが油断は禁物である。激務であることは重々承知の上だが、これまで奮闘してきた出産看護チームが引き継ぎ24時間体制で重子さま、並びにお子様を見守ること、強く願いたい。
 義政さまは8歳で将軍家の家督を継承された。我が婿の細川勝元は管領として、不詳この山名宗全も侍所頭人として微力ながら長年義政さまをお支え申し上げてきた。義政さまが奮闘させれるお姿を1番身近で見てきた者として、義政さまの思いをしかと受け止めているという自負もある。昨年、弟の義視さまを還俗させてまで次期将軍に指名なさったのも、足利将軍家の安寧が国の安寧につながると思われたこそのはず。そしてその意志を貫かれ、一部で噂されているご嫡男へのご継承は絶対に避けるべきである。義視さまを指名する際、訝る義視さまを説得するため「今後実子が生まれた場合は出家させ、将軍家の家督は義視に譲る」という誓約書をお渡しになったこと、ゆめゆめお忘れではないだろう。そのために義視さまに1日でも早く将軍の継承を実行し、足利義視将軍の実現を切に願うものである。そのためにこの山名宗全、粉骨砕身お支えすることをお約束することで、今回の慶事への何よりのお祝いの言葉とさせてだく所存だ。(主筆 山名宗全 記)
1465年11月24日社説


④細川勝元→足利義政 密書

ご嫡男男お祝い並びに家督継承のこと

 この度のご嫡男のご生誕心よりお祝い申し上げます。長年お子を、何より男子を望まれていた将軍さま、そして奥様の富子さまのお喜びもひとしおかと拝察申し上げます。また拙者がお送り申し上げた黄金の乳母車をお喜びの由、臣下冥利に尽きます。こちらからも御礼申し上げます。
 さてこの度のご嫡男ご生誕で避けては通れない、家督継承について、僭越ながら長年義政さまをお支え申し上げてきた忠臣として意見させて頂きます。
 昨年義政さまは長年ご嫡男に恵まれない状況を鑑み、将軍家の安寧と国の安寧を願い、難しいご決断をなされました。しかしながら状況は大きく変わりました。約束通り義視さまに将軍職をお譲りすることは必ずしも反対ではありませんが、ご嫡男がお生まれになった以上、真の意味で血の繋がったお子様に将軍家の家督を円滑に譲ることを1番に考えらるのがご懸命かと存じます。そのためにも今しばらく将軍職に留まり、時期やその時々の状況に配慮しつつ、隠居なさるのがよろしいかと存じます。この拙者の意見は側近の伊勢貞親殿や我が舅 山名宗全とは意見を異にするやもしれません。しかしながら、この勝元、義政さまのしもべとして、そして管領家の一員として義政さまを今まで以上にお支え申し上げることをここにお誓い申し上げてこの書の筆をおろさせていただきます。
追申
間者(スパイ)からの情報によりますと伊勢貞親殿に不穏な動きが見られるとのことです。詳細わかりましたら直ちにお伝え致しますが、くれぐれも貞親殿の言動に迷われませんように。
 1465年寛正6年11月29日  命名の儀の前日に
足利義政さま
 忠臣 細川勝元 拝
京都空想歴史資料館蔵 「細川家消息集」

 以上の資料を丁寧に読むと各人の思惑が透けて見える。そして最初に動いたのは伊勢貞親だった。義尚の生まれた翌年(1466年)貞親は足利義政に「義視に謀反の動きあり」と讒言したのである。義政はただちにこの讒言を信じたわけではないようだが、貞親の意図には気がついていただろう。義視がいなくなれば、ようやく授かった我が子義尚に直接家督を継承できるという考えは義政の頭の中を一度ならずよぎっただろう。と同時に義政は義視と義尚とは26歳離れているので、義視を経由して義尚に継承することに必ずしも反対ではなかったようだ。しかし貞親はそうは考えなかった。貞親は義尚の乳父であり、義尚が将軍になれば、伊勢家は安泰だからだ。当然ながら、貞親は足利家の安泰よりも我が家の安泰を優先し、義視排除のための勝負にでたのだ。そしてこの勝負は裏目に出た。驚いた足利義視はまずは山名宗全、そして細川勝元に助けを求めた。宗全にとっては勝元にとっても足利義政最側近の貞親を排除するのは都合がいい。そこで一気団結し、貞親排除のため、義政に圧力をかけた。山名、細川の両巨頭の圧力に屈した義政は貞親を追いやり(いわゆる文正の政変)、両家は幕政への影響力を増した。ところが共通の敵、貞親が失脚すると今度は宗全と勝元の同盟に綻びが出る。宗全は義視を支持し、勝元は義政を支持したのだ。山名宗全と義政の関係は長年潜在的に対立していた。特に山名家とはライバル関係にあった赤松家を義政が復権させたことには大きな不満があった。一方勝元とっては今将軍が代わるより、義政が引き継ぎ将軍でいる方が影響を及ぼしやすく、都合が良かった。文生の政変後、一時期義視が実質的に将軍として振る舞ったが勝元の猛烈な巻き返しにより、義政が実権を取り戻す。このことが両家が袂を分つ契機になったのだろう。
 細川勝元は山名宗全の婿であったが、細川家は足利家に連なる管領家であり、宗全が勝元以上の権力を手にすることは簡単ではないが、このまま舅婿の関係で持ちつ持たれつの関係も可能だった筈だ。しかし宗全は勝負に出る。細川家と手を切り、同じ管領家である畠山義就と手を組むことだ。大和で連戦連勝をし、河内の支配を固めつつあった義就にとっても渡りに船だった。そして宗全の求めに応じて1466年12月24日兵を率いて河内を出発。2日後の26日、宗全の手引きで、上洛する。沿道では京都市民に見守られながら大報恩寺(千本釈迦堂)に陣を構えるた。義就の上洛は幕府には許可を取っていないから、義政の逆鱗に触れることになる。とはいえ、この年末から正月にかけての義政の対応は、当時から呆れられていた。朝令暮改、右往左往、どの言葉もピッタリとしないほどの迷走ぶりだった。その詳細は30日目の日誌に綴ることにする。

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