1466年(文正元年)は畠山義就にとって大きな転機となった年だ。それは京における政治勢力のパワーバランスの変化に因るものである。歴史の教科書を開けばこの年(文正元年)は文正の政変があった年である。
ことの起こりは前年末に足利義政に待望の男子(義尚)が生まれたことだった。本来なら慶事だが、既に義政は弟の足利義視を次期将軍に指名していたから、単にめでたい話では済まなくなっていた。何せ将軍家の家督継承だからさまざまなの人や家に影響を与えるのは避けられず、彼らの思惑も入り乱れ、事態はさらに複雑化する。少し時計の針を戻して1465年(寛正6年)11月、足利義尚誕生時の様相を当時の新聞各紙等で確認してみよう。
①「官版 室町TIMES」(政府系新聞)
すこやか、足利家待望の男子ご誕生
②「ほぼ毎日SADACHIKA新聞 社説」
③「山名い雨はないTIMES」
④細川勝元→足利義政 密書
以上の資料を丁寧に読むと各人の思惑が透けて見える。そして最初に動いたのは伊勢貞親だった。義尚の生まれた翌年(1466年)貞親は足利義政に「義視に謀反の動きあり」と讒言したのである。義政はただちにこの讒言を信じたわけではないようだが、貞親の意図には気がついていただろう。義視がいなくなれば、ようやく授かった我が子義尚に直接家督を継承できるという考えは義政の頭の中を一度ならずよぎっただろう。と同時に義政は義視と義尚とは26歳離れているので、義視を経由して義尚に継承することに必ずしも反対ではなかったようだ。しかし貞親はそうは考えなかった。貞親は義尚の乳父であり、義尚が将軍になれば、伊勢家は安泰だからだ。当然ながら、貞親は足利家の安泰よりも我が家の安泰を優先し、義視排除のための勝負にでたのだ。そしてこの勝負は裏目に出た。驚いた足利義視はまずは山名宗全、そして細川勝元に助けを求めた。宗全にとっては勝元にとっても足利義政最側近の貞親を排除するのは都合がいい。そこで一気団結し、貞親排除のため、義政に圧力をかけた。山名、細川の両巨頭の圧力に屈した義政は貞親を追いやり(いわゆる文正の政変)、両家は幕政への影響力を増した。ところが共通の敵、貞親が失脚すると今度は宗全と勝元の同盟に綻びが出る。宗全は義視を支持し、勝元は義政を支持したのだ。山名宗全と義政の関係は長年潜在的に対立していた。特に山名家とはライバル関係にあった赤松家を義政が復権させたことには大きな不満があった。一方勝元とっては今将軍が代わるより、義政が引き継ぎ将軍でいる方が影響を及ぼしやすく、都合が良かった。文生の政変後、一時期義視が実質的に将軍として振る舞ったが勝元の猛烈な巻き返しにより、義政が実権を取り戻す。このことが両家が袂を分つ契機になったのだろう。
細川勝元は山名宗全の婿であったが、細川家は足利家に連なる管領家であり、宗全が勝元以上の権力を手にすることは簡単ではないが、このまま舅婿の関係で持ちつ持たれつの関係も可能だった筈だ。しかし宗全は勝負に出る。細川家と手を切り、同じ管領家である畠山義就と手を組むことだ。大和で連戦連勝をし、河内の支配を固めつつあった義就にとっても渡りに船だった。そして宗全の求めに応じて1466年12月24日兵を率いて河内を出発。2日後の26日、宗全の手引きで、上洛する。沿道では京都市民に見守られながら大報恩寺(千本釈迦堂)に陣を構えるた。義就の上洛は幕府には許可を取っていないから、義政の逆鱗に触れることになる。とはいえ、この年末から正月にかけての義政の対応は、当時から呆れられていた。朝令暮改、右往左往、どの言葉もピッタリとしないほどの迷走ぶりだった。その詳細は30日目の日誌に綴ることにする。