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■【より道‐101】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「畠山騒乱」

◼️畠山氏のお家騒動

畠山氏のお家騒動は、畠山持国(もちくに)に子供がいなかったことからはじまります。そのため、家督は、弟の畠山持富(もちとみ)が継ぐ予定でしたが、畠山持国(もちくに)と遊女の間に息子がいたことが判明します。

自らの血筋を残したい畠山持国(もちくに)は、弟の家督相続を撤回して、じぶんの息子、畠山義就(よしなり)が正式な後継者にするよう、八代将軍・足利義政よしまさの裁可を得ました。

すると、畠山持富(もちとみ)と、その息子・畠山政久(まさひさ)が反発して家臣たちを含めた反抗勢力が生まれます。さらには、畠山持国(もちくに)と政事で対立している細川勝元かつもと、山名宗全そうぜんが、これを好機ととらえて、畠山政久(まさひさ)の支持しはじめたのです。

ここから、畠山義就(よしなり)と畠山政久(まさひさ)の争いが過熱していくことになるのです。


■応仁の乱

1455年(享徳四年)畠山持国(もちくに)が亡くなると、畠山氏の家督は、畠山義就(よしなり)が継ぎます。しかし、1457年(康正三年)に起きた、「大和の争乱」で、畠山義就(よしなり)は、将軍の許可を得ず勝手に出陣して、八代将軍・足利義政よしまさの怒りを買ってしまいます。

他にも、他人の所領を横領するなど、畠山義就(よしなり)は、かなり強引な人物だったようです。

そんななか、畠山持国(もちくに)の甥・畠山政久(まさひさ)が亡くなると、八代将軍・足利義政よしまさは、畠山政久(まさひさ)の弟の畠山政長(まさなが)に家督を譲るよう命じます。そして、畠山義就(よしなり)は、綸旨による討伐対象に定められ、朝敵となってしまい、吉野に逃げてしまいます。

そんななか、幕府内では、足利義視よしみと足利義尚よしひさの家督争いが発生し、日野富子とみこや伊勢貞親さだちかに相談された山名宗全そうぜんが、畠山義就(よしなり)を支援するようになるのです。

そのいきさつは、足利義政よしまさの生母の日野重子が死去したことに伴い大恩赦が行われ、畠山義就(よしなり)も過去の罪を許される、赦免しゃめんされたことからはじまります。

畠山義就(よしなり)は、山名宗全そうぜん支持のもと、挙兵をして、畠山政長(まさなが)が所有している河内国を目指し各諸城を制圧。ついには上洛を果たし、足利義政よしまさに、畠山政長(まさなが)の管領辞職を要求したのです。

すると、この山名宗全そうぜんの勢力拡大に危機をもった、細川勝元かつもとが巻き返しを図るため、六代将軍・足利義教(よしのり)から続く、有力大名の家督争いを利用して、東軍と西軍に分かれて戦う「応仁の乱」に発展したというのが、いきさつです。


■延長戦

「応仁の乱」では、畠山義就(よしなり)は、山名宗全そうぜん率いる西軍。畠山政長(まさなが)は細川勝元かつもと率いる東軍に属して戦いました。

なんの大義もないこの「応仁の乱」は、11年もの長期にわたり戦いが続きますが、山名宗全そうぜんと細川勝元かつもとの死によって終結することになります。しかし、畠山義就(よしなり)と畠山政長(まさなが)の争いは「応仁の乱」終息後も続きました。

「応仁の乱」では、東西互いに属していた人物が一つの領地の守護を主張していたので、「応仁の乱」終息後に、幕府から守護職を命じられたとしても、実際に支配している者と違うこともありました。畠山氏の領地、河内国はまさにそのような状況でした。

幕府から守護職を命じられたのは、畠山政長(まさなが)でしたが、実質支配しているのは、畠山義就(よしなり)ということです。

「応仁の乱」の後、室町幕府の権威は大きく衰退してしったので、各地では下剋上の風潮がでてきます。そこで、九代将軍・足利義尚よしひさは、将軍権力を世に示すために、畠山義就(よしなり)の追悼命令をだしますが失敗。両軍膠着状態となり解決しませんでした。

結局、畠山義就(よしなり)一族は、河内国と大和国、山城国を支配し続けて、畠山政長(まさなが)の一族は、紀伊国と越中国を支配し、互いに畠山氏当主の座を巡って争い続けます。

世代を超えても争い続ける。武士の悲しい生き方が畠山氏のお家騒動にあらわれています。


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