京住日誌 25日目
【What happened today 】
畠山家は管領家だから、家督を譲る場合、足利将軍家の裁可がいる。時に将軍家自らが口出し、意向とは違う家督を強制したりもする。足利将軍家自体も家督争いとは無縁ではなかったし、それがどんなにか物理的にも精神的にも家の力を消耗させるか知っていたからこそ、他家の家督争いはむしろウェルカムだったようだ。力が衰えることで結果的に幕府の運営がスムーズに行く可能性があるからだ。よく指摘されることだが室町幕府の権利構造は盤石ではなかった。だからしばしば家督争いに口を挟み、争いをけしかけ自らの権力基盤の構築に利用している節がある。そこで畠山持国からの家督継承が2転3転する様相を時系列に記述してみる。
その① 嘉吉の変(1441年)前後
持国→持永→持国
それは幕府を震撼させる嘉吉の変(嘉吉の乱とも)が起こる5ヶ月前のことだった。1441年1月(嘉吉元年)暴君と恐れられていた、足利義教は畠山持国の家督を取り消し、腹違いの弟である持永に家督を譲る裁定を下した。義教の鎌倉への追討命令に対して持国が言を左右にして従わず、義教の不興を買ったためだとされている。しかし家督変更の上奏をしたのは持永の家臣団だ。義教にとって、持国は自分の思い通りにならない家臣だったようで、もしかしたら義教が持永の家臣団を焚き付けそのような上奏を出させたのかもしれない。ちょっと不思議なのは持国は特に異議を唱えず、義教の裁定に従っていることだ。家督の変更は京都から追い出されることも意味する。持国は大人しく?知行国の一つである河内国に下国した。まぁ家臣団に裏切られ形になったのだから、内心は怒りに震えていたかもしれないが。
ところが神様は時として誰も予想だにしないことを起こすようだ。畠山持国が家督を追われてからわずか5ヶ月後、世間を震撼させる大事件が起こる。時の将軍足利義教が、赤松満祐、教康親子によって私邸で暗殺されてしまったのだ。(嘉吉元年6月24日)。管領である細川持之は翌日25日.諸大名を召集して対応を協議する。出席者の歴史的資料はないようだが、三管領家である畠山家の新しい当主畠山持永は当然出席していただろう。取り急ぎの議題は幕府の最高権力者が殺されたのだから、次期将軍を決定しなければならない。嫡男千也茶丸(後の足利義勝)を将軍後継とすることはすんなり決まったと思われる。ただ千也茶丸はまだわずか8歳だったので管領細川持之が政務を代行した。またこの時点では変の詳細については幕府首脳陣も把握していなかったのではないか。何せ時の最高権力者が家臣のひとつに過ぎない赤松家の私邸で殺害されるという前代未聞の事件だったからだ。幕府首脳陣は情報収集に余念がなかっただろう。まず疑われたのはあまりに大胆な行動なので、他家が関与しているのではないかということだ。そして「足利義教殺害される」の報ははすぐに世間を駆け巡っていたから幕府の混乱に乗じた一揆なども予想された(実際起こった)。そのためにまだ情報が錯綜する中、何よりも挙国一致体制を確立し、政情を安定させることが最優先事項だっただろう。そこで細川持之は足利義教によって失脚した人や家を赦免することで挙国一致体制の構築を目指そうとした。その中の目玉のひとつが管領家である畠山家の元当主、持国の赦免だった。細川家と畠山家は同じ管領家として何かと利害が対立する言わば永遠のライバルだから持之としても実力者持国の赦免は本来なら避けたかっただろう。しかし状況が状況だけに背に腹はかえられない。早速実行された。そしてまだ政治経験が浅く、家督を継承したばかりの持永はこの決定に異議を唱えることが出来なかっただろう。しかしだからといって、畠山持国に上洛が許可されたわけでもないし、ましてや持国が再び畠山家の家督に復帰できたわけではない。ところが持永の家臣団は持国の復帰に危機感を覚えたようだ。あろことか、持永の有力家臣遊佐氏と斎藤氏はまだ河内国にいた持国邸に刺客を放った。成功していれば何の問題?もなかったが失敗に終わる。しかも捕らえられ誰の差し金か口を割らされた。激怒した持国は軍勢を率いて上洛の構えをみせる。ただでさえ、政情不安なところへ実力者の持国が軍勢を率いて上洛すれば混乱に拍車をかけることは間違いない。事態を鎮静化させるため管領として東奔西走していた細川持之は持国を宥めるため?使者を河内国の持国邸な送り、その意向を確認させた。すると持国は「倒幕の意向も弟を討つつもりない」と答えたという。持永の家臣2人が持国邸に刺客を放ったことを持永が知っていたかは分からない。しかし兄持国の発言から判断するに少なくとも兄弟の仲は悪くなかったのではないだろうか?その根拠の一つは既に前に書いたが持国には父が叔父から家督を返還(天下の美挙)されたという記憶があることだ。そうだとすると5ヶ月前、持国が足利義教の不興を買い、家督を奪われた上、持永に譲らされたとき、その決定に持国が素直に従った理由も納得できると考えるが如何であろうか?
兄弟に対する恨みのない持国であったが、裏切った家臣団を許すことはできない。細川持之の使者に対して前述した発言をした後、「黒幕である遊佐氏と斎藤氏には切腹を命じてほしい」と語った。この情報は持永の家臣団も知るところとなり、波をうったように持永派家臣団は持国派に寝返ったという。追い込まれた遊佐氏と斎藤氏は7月4日、持永とその弟持富を拉致同然で連れ出し、最後の抵抗をしようとした。しかし持富は持国を支持して脱出し、持国邸に匿われた。一方持永は遊佐氏らと越中へ逃亡し行方不明になった。一説では近江国に潜伏しているところを殺されたという。結果、一旦畠山家の家督を失った畠山持国はその半年後の7月に畠山家の家督へ復帰したのだった。ただし、畠山家の内紛がこれで収まったわけではなかった。火種は燻り続けていたのである。
②宝徳2年(1450)の家督継承
持国→(持富)→義就
嘉吉の変に乗じて家督に復帰した畠山持国だが、家督継承問題が根本的に解決したわけではない。持国には家督を譲るべき嫡男がいなかったからだ。畠山家の繁栄のためにも家督の継承者をはっきりさせる必要があった。そこで家督復帰に功績のあった腹違いの弟である持富を養子にし、家督を引き継がせることにした。持国の家督復帰が比較的スムーズに進んだのも持富の支持があったからで、持富への家督継承は自分への支持に対する恩賞の意味合いもあっただろう。しかしこれからも何度も書くことになるが、すんなりと円満解決とならないのが畠山家の家督問題だ。持国は突然、弟の持富への家督継承を撤回する(1448年)。その上で石清水八幡宮寺に出家させる予定だった自分の庶子を家督継承者として元服させ、足利義政の裁可を受けた。そして翌年、持国の庶子は足利義政から「義」を授けられ、義夏(のちに義就と改名)と名乗る。さらに1450年(宝徳2年)には持国から義夏(義就)へと正式に畠山家の家督を継承した。足利義政からもその旨を明記した将軍家の公式文章(御判御教書)が発給されている。一方家督継承を約束されていた弟の持富は兄の決定に異議を唱えず病死した(1452年宝徳4)。しかし持富の家臣団は不満を募らせ、やはりここでも畠山家の家督問題の火種は消えずに燻り続けたのである。
③1454年(享徳3)
義就→ 弥三郎
足利将軍家、細川家、山名家を巻き込み泥沼化
前述したように持国は庶子である義就に家督を譲った。少し頼りないが足利義政という後ろ盾もいるから持国はホッとしたかもしれない。しかし義就に家督を譲ったとはいえ、畠山家の実質支配者は持国で、人事権もそのまま握っていた。そして持国は自分の家臣団を優遇し、持富の家臣団を冷遇したようだ。不満を募らせた家臣団の1人神保氏が中心となって持富の嫡男弥三郎を立て家督を奪還しようと画策していた。重要なのはそのための大義名分だった。そこで弥三郎派は義就の出自を問題にした。義就の母の出自が不明で、義就は畠山家の当主に相応しくないと主張したのだ。実際、義就の母は持国の正式な正室、側室ではなく、桂女(かつらめ)だったと言われている。桂女は戦場などで戦勝祈願などをする巫女で慰安婦の役目を兼ねていたらしい。曰く付きの女性だから持国も義就への家督継承の難しさはよく分かっていただろう。それでも持富の家督継承を撤回してまで義就への家督継承を強行したのは、嘉吉の変(1441年)前に自分を裏切った持永や持富の家臣団に対する恨みであろうか。
このように怨念に燃え、差別人事を繰り返す持国に対して不満を抱く家臣団は少なくなかった。また大義名分として義就の母の出自を問題にすることも一定の説得力を持ったようだ。弥三郎派家臣団の不満は実際の行動にまでうねりとなっていく。しかし1454年(享徳3)4月、行動直前で持国の知るところになり、まずは家督奪還計画を画策した中心人物の神保氏の息子に切腹を命じた。そして神保氏本人には持国の忠臣遊佐国助を派遣し、合戦の末殺害させている。すると他の弥三郎派家臣団は弥三郎と共に姿をくらませた。管領細川勝元が弥三郎とその家臣団を匿ったのだ。さらに一部の家臣団は山名宗全に匿われていた。この辺りから単に畠山家の家督争いではなく、室町幕府内の権力闘争の様相を呈していく。いずれにせよ細川、山名という二代巨頭の後ろ盾を得た弥三郎派の形勢逆転である。それでも持国は足利義政に弥三郎討伐の命令を出してもらい、対抗しようとした。しかし弥三郎有利の形勢のまま、同年8月、弥三郎派は義就邸を襲撃する。義就は命からがら、京都を脱出、伊賀国に下国した。父持国はややあって建仁寺で隠居することになった(最終的には弥三郎邸へ)。一連の争いに勝利した弥三郎は9月.足利義政との面会を果たす。まずは自身の討伐命令を取り下げてもらい、畠山家の家督相続も認められた。しかしこれで一件落着といかないのが畠山家の家督問題だ。それは足利義政の行動に由来したものだった。そしてもはや畠山家の家督問題は幕府内の権力闘争となり、結果としてみると応仁の乱の勃発は避けられなかったのだ。
次回は義就の反撃を追ってみたい。
【What eaten today for dinner】
トマトソースが余っていたので、カレー粉を追加してトマトカレーに。
カレーライスはやっぱり美味しいね。ナスの味噌汁もよかった、と自画自賛の夕食。