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【つの版】日本刀備忘録47:享徳之乱
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
享徳2年(1453年)、17歳の征夷大将軍・足利義成は「義政」と改名し、管領・細川勝元が彼を奉じて天下を差配します。前管領の畠山持国は勢力回復を目指し勝元と対立するものの、間もなく自らの家で御家騒動が勃発し、没落していくことになります。
◆室町◆
◆無頼◆
畠山義就
畠山持国には嫡出の男子がなく、遊女(桂女)ともされる側室・土用との間に次郎という庶子がいるだけでした。そのため持国は弟の弥三郎持富を後継者に指名し、次郎は石清水八幡宮の社僧とする予定でしたが、文安5年(1448年)11月にこれを撤回して12歳の次郎を呼び戻し、改めて後継者とします。彼は将軍義成(義政)から偏諱を賜って義夏と名乗り、持富もやむなく同意しました。しかし畠山氏譜代の家臣で越中守護代の神保国宗らはこれに異議を唱え、持富が宝徳4年(1452年)に没すると、その子の弥三郎と弥二郎を支持します。これにより畠山氏の家臣団は2つに分裂しました。
享徳3年(1454年)4月、弥三郎とその一派は持国により排斥されますが、畠山氏の弱体化を望む管領・細川勝元は彼らを庇護します。勝元派の山名持豊(宗峯)や大和筒井氏まで弥三郎派に味方し、勢いを盛り返した弥三郎派は8月に持国の屋敷を襲撃、焼き討ちを行いました。形勢不利とみた義夏は遁走して伊賀に隠れ、持国は隠居に追い込まれます。
しかし将軍義政はこれを認めず、弥三郎を匿った勝元の被官を切腹させ、山名氏と対立する赤松則尚(満祐の甥)を許して復権させようと図ります。山名宗峯は激怒しますが、義政は11月に諸大名に命じて宗峯の追討を呼びかけます。これは勝元のとりなしと宗峯の隠居でおさまり、義夏は12月に河内から京都に戻って義政と対面、家督相続を認められました。そもそも持国の決定に家臣たちが逆らって弥三郎を擁立した(下剋上)のが発端ですから、幕府としては弥三郎の相続を認めるわけにもいきません。
義夏は翌年2月に義就と改名して右衛門佐(金吾)に叙任され、安心した持国は翌月58歳で病没しました。とはいえ家臣団の分裂はおさまらず、火種は残されたままとなります。なお赤松則尚は宗峯の隠居を好機とみて播磨で挙兵しますが、山名氏の軍勢に押し潰されて討ち取られました。
享徳之乱
義夏が京都に戻って間もない享徳3年末(1455年1月)には、鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を暗殺し、双方に加担する武家同士の武力衝突「享徳の乱」が勃発しています。これは関東一円に拡大して28年間も続き、関東地方における戦国時代の始まりと位置づけられています。
成氏は永享の乱で敗死した持氏の遺児で、文安4年(1447年)頃に幕府に許されて鎌倉に帰還し、父の跡を継ぎました。旧持氏派は続々と彼のもとに馳せ参じますが、関東管領に任じられた上杉憲忠の父・憲実は幕府の命令で持氏を攻め滅ぼした張本人であったため、成氏は彼らを父の仇とみなして憎悪していました。また成氏・憲忠とも就任時は推定10代前半と幼く、有力な家臣が補佐役となって互いに派閥を形成し、睨み合いが始まります。
宝徳2年(1450年)、成氏の側近・簗田持助は相模国鎌倉郡長尾郷を主君の命令により押領します。ここは関東管領山内上杉家の家宰・長尾氏の発祥の地であり、代々の祖霊を祀る御霊宮もあったため、長尾氏は返還を求めますが拒まれました。激怒した長尾氏当主・景仲は、扇谷上杉家の家宰・太田資清(法名は道真)と手を組み、成氏を討とうと画策します。
同年4月、両者は鎌倉御所に500騎を率いて襲撃を仕掛けますが、事前に情報を得ていた成氏は江の島へ逃れ、味方の諸将の奮戦により長尾・太田勢を撃退しました。憲忠はこの襲撃のことを知りませんでしたが、家臣の不始末の責任をとって一時蟄居します。憲実はあくまで成氏を支持し、弟を仲介者として争いを納めさせますが、両者の遺恨は解消しませんでした。また幕府の管領のうち畠山持国は成氏派でしたが、細川勝元は憲忠を支持し、関東管領を介して鎌倉公方の暴走を制するべきだと考えていました。息子とも対立して居心地の悪くなった憲実は関東を去り、西国の大内氏に身を寄せます。
享徳3年末、成氏は憲忠を鎌倉御所に招くと、結城成朝・里見義実・武田信長らに命じて討ち取らせます。また岩松持国に命じて山内上杉家の家宰・長尾実景(景仲の養弟)とその子・憲景(景住)を殺害させました。景仲は長尾郷の御霊宮に参詣に出ていて留守でしたが、凶報を聞いて鎌倉へ飛び戻り、生き残った上杉・長尾一族を率いて成氏討伐に動きます。
景仲は領国の上野に戻って兵を集め、越後守護の上杉房定に援軍を要請するとともに、京都へ嫡男の景信を派遣して事情を報せ、京都にいた憲実の次男・房顕を関東管領に任命するよう幕府に要請します。成氏は援軍が来る前に景仲らを討つべく鎌倉を進発し、享徳4年正月に武蔵府中に駐屯します。扇谷上杉家の持朝はこの隙を突いて鎌倉を襲撃しますが撃退され、景仲は直ちに上野と武蔵の手勢を率いて南下、府中へ進軍しました。
成氏は分倍河原で迎え撃ち、上杉憲秋(禅秀の子)、顕房(持朝の子)らを撃破して自害に追いやり、敗れた景仲は常陸国小栗城に逃げ込みます。成氏は勢いに乗じて武蔵を制圧し、下総国古河城(現・茨城県古河市)に拠点を置いて小栗城を攻め、閏4月に攻め落とします。しかし景仲は上野に戻り上杉顕房と合流、6月には幕府の命を受けた駿河守護・今川範忠が駆けつけて鎌倉を占拠します。さらに上杉房定も越後から南下して上野に入り、成氏勢を打ち破って下野国足利まで進出、成氏は南北を敵に挟まれました。
関東分断
やむなく成氏は鎌倉に戻ることを一時断念し、古河城を拠点として各地の味方に支援を呼びかけました。これを「古河府」といい、成氏とその子孫は130年にわたって古河に住まうこととなりましたが、彼ら自身は「鎌倉殿」の称号を名乗り続け、関東における正当な政権であると主張しました。
この時の成氏の勢力範囲は下総・常陸・下野のほぼ全域に及んでおり、古河はその中心にあったこと、利根川・渡良瀬川といった河川や沼沢に守られた難攻不落の要害にして水運の拠点であったことなどが、ここを本拠地とした理由としてあげられます。下総の結城氏・千葉氏、常陸の佐竹氏・小田氏、下野の宇都宮氏・那須氏・小山氏、上野東部の岩松氏らが持氏を支持しました。成氏はさらに武田信長を上総へ、里見義実を安房へ派遣して制圧させ、関八州のうち上野・武蔵・相模を除く利根川以東の五州を制圧するにおよびました。足利氏創業の地たる下野国足利も成氏が抑えたのです。
両者は利根川を挟んで睨み合い、防衛拠点となる城塞を各地に築きましたが、太田道真の子・太田資正(道灌)が築いたとされるのが武蔵と下総の境に位置する江戸城です。その北西、武蔵野台地の北端には川越城も築かれ、2つの城は軍事道路(川越街道)で結ばれて防衛線を構築しました。
同年7月には康正、2年後には長禄と改元されますが、成氏はこれを認めず享徳の元号を使い続けました。これに対抗するため、義政は自らの異母兄で出家していた清久を還俗させ、偏諱を授けて政知と名乗らせ、長禄元年(1457年)12月に鎌倉公方(関東主君)として下向させました。彼は近江園城寺に半年とどまって準備を整え、翌年5月に錦旗を賜り関東へ出発しますが、実権は幕府がつけた補佐役の関東執事・渋川義鏡らに握られており、関東管領側の地方武士からの支持を得ることができませんでした。そのため鎌倉に入ることさえできず、伊豆国韮山の国清寺を陣所とします。
幕府は政知の派遣と前後して、甲斐守護の武田信昌、信濃守護の小笠原光康、奥羽の諸将、越前・尾張・遠江守護の斯波義敏らに関東への出兵を命じましたが、信昌は幼少かつ守護代・跡部氏との争いがあり、光康は御家騒動で出兵どころではありません。義敏もまた重臣の甲斐氏・朝倉氏・織田氏らと争っていて出兵どころではなく、怒った義政は長禄3年(1459年)に甲斐常治を越前守護代に任じて支援し、義敏は周防の大内氏のもとへ落ち延びる有り様でした。援軍が届かぬ政知は動けず、伊豆に留め置かれます。
寛正元年(1460年)、鎌倉にとどまっていた今川範忠が病気のため駿河へ帰国すると、成氏勢は相模を経て伊豆に侵入し、政知の陣所を襲撃して焼き払います。政知らは慌てて退避し、鎌倉幕府滅亡後に北条氏の菩提寺とされた韮山の円成寺付近の堀越に御所を移しました。一応鎌倉殿とは呼ばれたものの鎌倉には入れなかったため、彼を慣例的に「堀越公方」と呼びます。彼の勢力は伊豆にしか及びませんでしたが、各地の寺社領を押領して経済基盤を確立し、30年あまり存続しました。
かくて関東が東西に分裂し、諸国が御家騒動や下剋上で混乱する中、長禄3年から寛正2年(1461年)にかけて全国的な大飢饉が発生します。幕府や諸大名は政争・戦争に明け暮れて民の救済どころではなく、怒り狂った庶民は土一揆を起こして掠奪による自力救済を行います。戦国時代の幕開けとなる「応仁の乱」の勃発は、もう間近に迫っていました。
◆室町◆
◆無頼◆
【続く】
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