畠山義就の命日(12/12)に応仁の乱の実態を解説
今日は畠山義就の命日。延徳2(1491)年、享年54。
畠山家の跡継ぎ争いでいとこの畠山政長と争い、政長を支持した細川勝元と対立し、山名宗全の支援をうけて応仁の乱を起こし、その後、西軍の主力として最後まで戦い抜いた。
上御霊神社は、義就と政長の戦端が開かれた場所であり、応仁の乱勃発の碑が残る。
よく応仁の乱は東軍の細川勝元VS西軍の山名宗全の戦いといわれるが、戦いのきっかけは畠山家の相続争いである。そしてこの畠山義就は、山名宗全らを味方につけて当初有利であったにも関わらず、細川勝元の巻き返しを受けると、都を追われ、さらに将軍から追討の命を受けても、その都度不死鳥のごとく蘇り、最後まで西軍の主力として戦い続けている。乱を起こした張本人だから当然と言えば当然だが、義就は諦めることは決してなかった。また戦闘能力も戦意も常に高かった。
西軍は途中で大内正弘が周防から大軍を率いて上洛したことで、一気に優位になったかにみえたが、細川もそう簡単に引き下がらず、終焉がどこになるのかわらかないような泥沼の戦いとなった。細川勝元や山名宗全が亡くなって戦いは続行し、結局、この乱の結末は、大内正弘が日野富子の根回しで官位や立場を朝廷に認めてもらうことで都から退去、畠山義就も日野富子から金銭的援助を受けて都を退去、ようやく平穏が戻ったということになる。
結論、応仁の乱は畠山義就に始まり、畠山義就に終わった。ということになる。そしてさらにいうと、応仁の乱は終わっても、畠山家の戦いはその後も続行していくこととなる。
畠山義就、歴史的には比較的地味で、目立たない存在だが、応仁の乱の一番の主役といっていいだろう。