大永3年(1523)8月10日は毛利元就が甥の死去を受けて家督を継ぎ吉田郡山城に入った日。兄興元の後継者の甥幸松丸が9歳で死去したため重臣の推挙で分家の元就が家督を継いだ。希代の策略家として知られる元就は大内氏や尼子氏という巨大な勢力に挟まれた一国人領主から中国地方の覇者となる。
大永3年(1523)8月10日は毛利元就が家督を継ぎ吉田郡山城に入った日。兄興元の後継者の甥幸松丸が9歳で死去。重臣の推挙で元就が家督を継ぎ一代で小領主から中国地方の覇者となる。希代の謀将元就が分家のままなら後の毛利氏は我々が知る形でないかも。あれが私の分岐点と言えること何だろ。
天文10年(1541)1月13日は吉田郡山城に籠る毛利元就が陶隆房(晴賢)率いる大内軍と共に尼子軍を撃退した日。国人領主の元就は大内氏と尼子氏の間で巧みに振る舞うが大内氏へ服属を明確にし尼子詮久(晴久)が攻寄せた。毛利・大内軍との戦いで情勢不利な尼子軍は雪の中撤退し追撃を受けた。