日本の100名城制覇!(広島県編/福山城、郡山城、広島城、三原城、新高山城)
【福山城】
福山城は、福山駅から徒歩約5分の場所にあり、「日本100名城」に選ばれています。
徳川家康のいとこである水野勝成が1619年に入封し、築城しました。
水野勝成は腕一本で諸国を放浪し戦いに明け暮れた名将で、高天神城の戦い、小牧・長久手の戦い、大垣城攻め、大坂冬の陣・夏の陣など数々の合戦で活躍しました。
1637年に九州で勃発した島原・天草一揆(島原の乱)では、嫡男・勝俊、孫・勝貞と共に75歳の勝成も出陣しています。
そんな勝成が築いた福山城は芦田川のデルタ地帯という要衝に位置し、徳川幕府の西国経営の拠点として重要な役割を果たしました。
明治維新後も多くの建物が残っていましたが、1945年(昭和20年)の米軍による空襲で天守を含むほとんどが焼失しました。
その後、1966(昭和41年)に天守や月見櫓などが鉄筋コンクリートで再建され、現在も福山駅のすぐそばで圧倒的な存在感を放っています。
【郡山城】
郡山城は広島バスセンターから安芸高田市役所前で下車し、そこから徒歩約5分の場所にあり、「日本100名城」に選ばれています。
南北朝時代に安芸国吉田庄の地頭として土着した毛利氏が築きましたが、正確な築城時期は不明です。
16世紀中期に毛利元就が城を拡大強化し、山全体が城域となって日本最大級の戦国山城となりました。
毛利元就と言えば、俗にいう「三本の矢(三矢の訓)」が有名です。
「三矢の訓」は、元就が長男・隆元、次男・元春、三男・隆景の三人に対して、「矢は一本なら簡単に折れてしまうが、三本束ねれば簡単には折ることができない。三本の矢のように三人が力を合わせれば毛利は安泰だ」と一家の結束を誓わせたという逸話です。
この「三矢の訓」は江戸時代に作られた話という説もありますが、実際に毛利家を継いだ長男・隆元と、吉川家を継いだ次男・元春、小早川家を継いだ三男・隆景は力を合わせ、協力体制を築きました。
その後、隆元の子で元就の孫となる毛利輝元の代になると、広島城を築城して本拠を移し、関ヶ原の戦い後に郡山城は廃城となりました。
【広島城】
広島城は広島駅からバスで「合同庁舎前」まで行き、そこから徒歩約8分の場所にあり、「日本100名城」に選ばれています。
豊臣政権五大老の一人である毛利輝元が瀬戸内の要所である太田川の三角州に築城しました。
多くの櫓が建ち並び、120万石の大名にふさわしい名城となりました。
関ヶ原の戦い後、西軍総大将を務めた輝元は減封されて広島を去り、代わって福島正則が城主となります。
ただ、幕府に無断で石垣を修築したとして正則は改易され、浅野氏が入封し、明治まで続きました。
明治時代には陸軍の用地として使用され、1894年(明治27年)に日清戦争が勃発すると城内に大本営(広島大本営)が設置され、明治天皇も行幸します。
帝国議会も広島で召集され、短期間ながら臨時首都として機能しました。
1945年(昭和20年)の米軍による原爆投下で天守は倒壊しますが、1958年(昭和33年)に鉄筋コンクリートで再建されました。
【三原城】
三原城は三原駅から徒歩約1分の場所にあり、「続日本100名城」に選ばれています。
毛利元就の三男・小早川隆景が築いた水軍の要害が前身とされ、1577年の織田信長による中国攻めを受けて毛利輝元が本陣を置きました。
1595年に小早川隆景が秀秋に家督を譲り、関ヶ原の戦い後に三原城は広島城の支城となります。
福島氏を経て浅野氏が入り、明治維新まで続きました。
三原城は典型的な海城で、満潮時に城の姿が海に浮かぶように見えたことから「浮城」とも呼ばれました。
【新高山城】
新高山城はJR山陽本線本郷駅から徒歩約20分の場所にあり、「続日本100名城」に選ばれています。
毛利元就の三男・小早川隆景が沼田川の対岸に築いて居城としたのが始まりとされています。
隆景は次兄・吉川元春と共に毛利両川体制を敷いて若年の当主・毛利輝元を支え、毛利氏の全盛期を築きました。
隆景が三原城を築城して本拠を移した後、しばらくして新高山城は廃城となりました。
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