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【紀行】毛利元就御墓所(吉田)
安芸高田市吉田にある郡山城に赴いてみました。毛利元就の守護領地(家の奥側に見える山稜一帯)こちらが郡山城となります。
毛利元就の先祖は「鎌倉殿の13人」の内の一人、大江広元まで遡れます。鎌倉から南北朝にうつる中。東国から西国である広島の地に赴任してより、守護領国体制が定着する間に吉田の地は毛利家の領地になります。
北端に尼子氏、西端に大内氏が在り。在野の領主豪族とひっついたり離れたりを繰り返し。切り取り、切り取り、領地を拡げていく毛利家12代当主「毛利元就」。行きがかり上、尼子氏と対峙することとなります。
郡山城対面には光井山(右)と青山(左)があります。こちらは、いずれも天文9年(1540年)に尼子晴久が安芸吉田に侵攻した時の陣城を設けた場所でした。
1540年の09月に尼子に布陣されてから…。援軍、大内の「陶隆房」が参着したのが1541年の01月。実に5ヶ月もの間「毛利元就」は手前郡山城に籠城して、対面の尼子軍と多治比川畔にて戦ったり引っ込んだりを繰り返したワケです。
この籠城策、今でも取り上げられることが多いです。織豊政権時代では通用したかどうか…考えると怪しいモノですが、1540年代ならではの結果だったと云えましょう。
援軍到着による籠城反撃が成功して後。
援軍の将であった陶氏は、大内氏を下剋上。さらに、陶氏は助けた元就によって宮島にて討ち取られるのです。
南無阿弥陀仏。。
郡山城は裾野から本丸山頂まで、じつに広範囲。ゆえに本日は「百万一心」碑のある「毛利元就墓所」まで登ってみました。
墓所までの道は整備もされており、夏場は木陰が涼しいのです。歩くと程なく、御墓所の鳥居が見えて参ります。
この毛利一族の墓は、郡山城内、城下にあったそれぞれの墓を明治2年(1869年)にこの洞春寺跡の元就墓所境内に移葬されたものである。
《墓所掲示板》
左から郡山城・初代城主「毛利時親」より八代「毛利豊元」までの合葬墓。右三基が元就兄の「毛利興元」。興元の子「幸松丸」。元就長男毛利隆元の妻の墓となります。
隆元の妻は後の広島城主「毛利輝元」の母。
関ヶ原の戦、西軍総大将として毛利輝元が担がれ(実戦は石田三成の采配でした)、敗戦後、徳川家康の指示で防長二州に転封されました。
輝元氏は郡山時代から広島時代を経て山口県萩市へと移動した…ということになります。
中国地区は浄土真宗が盛んな場所ですが、墓に関して県央・県北にはまだまだ単一の個人墓を以て墓所とする風があります。
後代になれば、先祖代々を合葬墓とする「寄墓(よせばか)」の風が増えます。
明治期の移送時には通年として先祖代々の墓を併せ墓にする風が一般的だったのか…あるいはもっと以前から合葬墓になっていたものを遷したのか。多分合葬墓状態の移葬だろうと思うのです。
ただ。
萩の大照院隣接地と東光寺隣接地にある毛利家墓所には…おびただしい個人墓碑がシンメトリックに並立されております。
祈る側の都合として、「偉人は単立の墓にしときたい」というココロなんでしょう。
現に、郡山城麓の元就の墓は単一です。
こちらの墓碑は後代につくられたものであり、墓所には「ハリイブキ」を墓標として植えられたそうです。(写真右奥の白樹)
「ハリイブキ」より大きくなってるのは、「イチイ」か「カヤ」でしょうかねぇ…。比婆に在る比婆御陵(伊邪那美命)はイチイの木でしたし。
ま。樹木葬ですよ。
「毛利元就」公墓所に対面するように建てられてあるのが、「百万一心」碑となります。
口碑の伝うる所によれば。毛利元就、郡山築城の際。鎮護の儀に代えるの意を以て、姫九壇の礎石に百万一心の文字を刻し之を埋めたりと。
《掲示碑文より》
けだし百の字、特に一画を省き一日とし、万の字放うに略字に従う。故にこれを分解すれば「一日一力一心」となる。即ち、日を一にし、力を一にし心を一にし衆以て事に當らば百事就らざるなく
《‐後略‐仝上》
これを見て広島のニンゲンだと…やはり饅頭屋さんのテレビCMを思い出すんですよねぇ…「百試千改」。(清酒屋さん、というハナシもありますが)
元就氏は67歳で後取り息子に亡くなられ…孫の輝元を訓育しなければならなくなった経緯もあり。生前の子弟に向けた教条訓がとりあげられることが多いです。
古典・漢籍。どこからか引用した言葉で自らに続くものを戒めつつ…面倒を見るのは。色々いわれるところもありますが、日本人のイイところなのかもしれません。(遺産は要るけど介護はイヤ…的なところもありますが)
元就御墓所でございました。(合掌)