《一代目》姉ちゃんの嫁ぎ先のもめ事、解決しに わざわざ上京しに来たよ 《二代目》伊勢という名字やめて北条にしたよ 《三代目》いちばん骨折ったよ(税政と民政と和睦ってハグして統べったよ) 《四代目》秀吉(ヒデヨスィ)に命あげたよ。 《五代目》小田原攻めの翌年ごートゥーヘブンしたよ。
番号〜♪ イチ!(北条早雲 そーうん) ニッ!(北条氏綱 うじツナ・うっじぃー) サンッ!(北条氏康 うじやす・ヤス!) シー!(北条氏康 うじまさ・マサ!) ゴッ!(北条氏直 うじNao・ちょく!) # 前に並んでいても 後北条(ごほうじょう)氏 # …だまれよ(*´∀`)
天正15年(1587)5月6日は相模国玉縄城主だった北条綱成が73歳で死去した日。今川家臣の父親が戦死したのち小田原の北条氏綱を頼る。氏綱に気に入られて娘を娶り一門に迎えられ北条綱成と名乗る。河越城の戦いでは半年も籠城戦を耐え抜き味方の夜襲に呼応し大勝利に導くなど武勇で知られた。
永正15年(1518)10月8日は北条氏綱が虎印判状を発給した日。これが虎印判状の初見。「祿壽應穩(ろくじゅおうおん)(禄寿応穏)」4文字上部に虎を配置。領民の禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべしの意。自らの考えを表すフレーズを印判として使えば伝わりやすいですね。
天文10年(1541)7月19日は北条氏綱が死去した日。後継に5か条の遺訓を残した。勝って兜の緒を締めよの由来はこの遺訓。戦国乱世で敢えて1つ目は義の大切さを説く。義に背き国を取っても後ろ指さされ、人の道外れ利を得た者は天罰から逃れられぬと。今の私が守るべき義とは何か?考えよう。
天文6年(1537)2月10日は武田信虎の娘定恵院(信玄の姉)が今川義元に嫁ぎ甲駿同盟が成立した日。義元は前年の花倉の乱を経て家督を継ぎ武田家と婚姻同盟を結んだ。義元の外交方針転換に支援していた北条氏綱が激怒し駿相同盟は破綻。駿河へ侵攻すると10年近くに渡り富士川以東を占拠する。
永正15年(1518)10月8日は北条氏綱が虎印判状を発給した日。これが虎印判状の初見。「祿壽應穩(ろくじゅおうおん)(禄寿応穏)」という4文字の上部に虎を配置した印判。領民の禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし。人々が平和で暮らすという願いが込められているという。
天文10年(1541)7月19日は後北条氏の2代目である北条氏綱が死去した日。跡継ぎの氏康に5か条の遺訓を残した。勝って兜の緒を締めよの由来はこの遺訓から。戦国乱世で敢えて1つ目は義の大切さを説く。義に背き国を取っても後ろ指さされ人の道を外れ利を得た者は天罰から逃れられぬと。