なぜ小弓城は南北に二つあるのか? 千葉県千葉市の南小弓城
先日、千葉県千葉市の北小弓城(生実城とも)を記事に取り上げました。戦国時代には千葉氏の重臣原氏の居城で、一時期、上総の真里谷武田氏に攻略され、小弓公方足利義明の御所が置かれた城です。
そのすぐ南に、南小弓城(小弓城とも)と呼ばれる城が存在します。かつては原氏の居城も、小弓公方の御所が置かれたのも南小弓城の方で、原氏は南小弓城を奪還した後、再びそこを居城にはせず、新たに北方に築いたのが北小弓城であると考えられてきました。ところが南小弓城が機能していた時期に、すでに北小弓城も存在していたことが最近判明したため、従来説が覆り、原氏が居城とし、小弓公方の御所が置かれたのも北小弓城であったとする見方が現在では有力です。
では、南小弓城は何のために築かれたのでしょうか。周辺を歩きながら考えてみました。
小弓の由来と上総・下総国境
千葉市中央区南生実町の、台地上に鎮座する八劔神社。社伝によると日本武尊東征の折、当地の争乱を平定して総の国を上総(現、千葉県中部)と下総(現、千葉県北部、茨城県西部)に分割、国境を定めたことに、人々が感謝して創祀したといわれる古社です。祭神は日本武尊、大日孁尊命、大己貴命。
また八劔神社には平安時代の寛弘年間(1004~12)頃、源頼光が上総に赴く途中、この地を訪れ、八劔神社に大弓を奉納したという伝承があります。一説に小弓という地名は、頼光の大弓に由来する、とも。源頼光といえば、丹波国(現、京都府中部、兵庫県東部)大江山の酒呑童子を討った伝説で有名です。頼光が実際に上総に赴いたかどうかはともかく、関東とつながりのあったことは事実でした。一方、小弓の地名については異説もあり、古代に麻の生産に関わった麻績連が、周辺を支配したことに由来するともいわれます。そして麻績連が崇敬したこの地の総鎮守が、八劔神社でした。いずれにしろ小弓という地名には、八劔神社が深く関わっていたようです。
さて八劔神社から約1.4km南に、村田川が流れています。かつてはもう少し北を流れていましたので、八劔神社からの距離は1km程度だったかもしれません。この村田川が、上総と下総の国境でした(現在の村田川も千葉市と市原市の境になっています)。つまり日本武尊が国境を定めた伝承を象徴するかのように、八劔神社は川向こうに上総国を望む国境の台地上に鎮座しているのです。そして八劔神社が鎮座する台地に築かれたのが、南小弓城でした。
北小弓城の南を守る長山砦
南小弓城の紹介に入る前に、その北側に存在した砦について、まず紹介しておきましょう。
前回、北小弓城を取り上げた記事内で、北小弓城の南北に砦があることに触れました。北小弓城の北にあるのが柏崎砦で、これは前回紹介しています。一方、南にあるのが長山砦でした。長山砦は北小弓城と南小弓城の中間に位置する台地上にあるため、北小弓城の南、南小弓城からは北ということになります。
生実池の交差点から県道66号を南下すると、生実町五差路の交差点に至ります。そこを左折し、通学路になっている坂道を東へ上ると、生浜東小学校が見えてきます。学校敷地の西側の路地を右折し、南下すると校庭があり、校庭の南西角付近の外側に、三角形の土塁状のものが確認できるでしょう。それが、長山砦跡だといわれます。現在は三角形に近い形状ですが、かつては方形で、土地の造成でかたちが崩れたようにも感じられました。
長山砦跡付近から南を望むと、台地がその付近から傾斜しているため見晴らしがよく、南小弓城も目前で、若干、長山砦の方が高いことがわかります。もっとも長山砦の標高は約22.4m、南小弓城のある台地の、八劔神社の北側に広がる畑周辺が約20~21mですので、僅かな差です。
長山砦の役割としては、北小弓城の南を守るための見張りが主目的であったでしょう。その点では、北小弓城の北方を監視する柏崎砦と同様と考えられます。ただし、長山砦の場合は、そのすぐ南側に同程度の標高の台地があり、南小弓城が存在しています。となると、長山砦と南小弓城はどのような役割分担だったのでしょうか。その点を踏まえつつ、南小弓城を見ていくことにします。
なお蛇足ですが、生浜東小学校の敷地には、かつて直径54mに及ぶ千葉県内でも有数の円墳「七廻塚古墳」がありました。学校の拡張工事で惜しくも消滅しましたが、この古墳には「姫塚」という異称があり、塚の周囲を7回廻ると「機織り」の音が聞こえると地元では語り継がれていたといいます。小弓の地名の由来となった、麻績連との関係を連想させる伝承です。
南小弓城の北端が埋蔵文化財センター
長山砦から南に下っていくと、すぐ東側にこんもりとした丘が見えてきます。千葉市内最大最古の前方後円墳「大覚寺山古墳」です。生浜東小学校の七廻塚古墳もそうですが、生実周辺には古墳や貝塚跡などが多く、古くから人々が生活していた地であることがうかがえます。貝塚があるということは、かつてはこの付近まで海岸線だったのでしょう。南小弓城内にも森台貝塚がありました。
大覚寺山古墳の南東すぐの場所に、千葉市埋蔵文化財センターがあります。市内で発掘された貴重な埋蔵物が展示され、無料で見学できます。大覚寺山古墳の至近距離ですが、古墳が築かれているのは北からのびる台地の南端、センターが建つのは南小弓城が築かれた台地の北端で、別々の台地でした。センター付近以南が南小弓城の城域と考えられ、センターの南側には空堀が残り、台地からセンターのあるエリアを切り離していたように見えます。腰曲輪的なものだったのでしょうか。
南小弓城の痕跡
南小弓城の中心部へは、センター背後の空堀付近から台地上の畑道を400mほど南に進めば、八劔神社に至りますが、個人的には、センターと大覚寺山古墳の間の道を西に下り、ローソンのある交差点よりも手前(東側)を左折、南に台地を上る道がおすすめです。台地を削った切通し状になっていて、荒々しい地肌に城らしさを感じました。この道を進むと、台地上の「小弓城と森台貝塚」と刻まれた石碑の前に出ます。周辺は畑が広がり、城跡にまつわるようなものは見当たりません。
またローソン前を南北に走る市道(生実池から南に下る県道66号は途中で西に折れ、直進する道は市道になります)を、交差点から100m余り南下すると、台地を東に上る細い道があります。その道を上り始めるとすぐ、民家向かいの南側に土塁が残りますが、樹木が茂っていてわかりにくい状態でした。この道を上っても、城の中心部に行くことができます。
土塁脇の道を上り切った南側あたりが「古城」と呼ばれ、南小弓城の主郭(本丸)であったと考えられています。台地の南西端付近にあたり、現在は畑の中の墓地に、城跡を示す石碑と案内板が建つのみ。かつては小弓公方の御所がこの辺にあったとされましたが、現在は北小弓城の本城公園のあたりとする説が有力となっています。
さらに古城から東に向かうと、大きく土を盛った塚が見えてきます。「行人塚」です。これは墓ではなく、里人が出羽三山に登拝した際に授かったものを納め、祀った塚でした。かつては別の場所にありましたが、宅地造成のために近年この地に移したものなので、城とは関係がありません。ただし、行人塚とその西隣に鎮座する八劔神社の間には、深い切通し道が通っています。これは「宮堀」とも呼ばれるもので、かつて曲輪を分けていた空堀の跡と見てよいでしょう。
境目を守る城
以上、南小弓城跡に、部分的に残る城の痕跡を紹介しました。城域全体については、下の図のようになると考えられます。北端が埋蔵文化財センターのあたり、西端は市道に沿った台地の縁、東端は大百池に接する台地の縁。つまりほぼ台地全体が城域であったと見てよいと考えます。南端は八劔神社をほぼ中心に、東西から南に張り出した台地の先端になるでしょうか。東西約560m、南北約460mの規模ということになります。
しかし台地上は削平されて耕作地や宅地となっているため、曲輪の状況もよくわからず、確認できる遺構も北端と城域西側に限られています。台地下の西側、及び南側はかつて水田であったとされ、東は大百池を天然の堀としたのでしょうが、なにしろ城域の規模が大く、自然地形に多少手を加えた古い時代の城跡のように感じられました。築城年代が一説に、鎌倉時代初期といわれるのもうなずけるところです。おそらく北小弓城よりも早く、築城されていたのでしょう。では南小弓城は、本城である北小弓城に対してどんな役割を負っていたのでしょうか。それは八劔神社本殿背後付近から、南を望めば一目瞭然のように思います。
南小弓城の南には平地が開け、隣国上総の遠くまで見晴らすことができます。つまり南小弓城の役割は、上総方面から北上してくる敵勢をいち早く発見し、長山砦を経由して北小弓城に急報するとともに、境目を守る城として、敵をまず引きつけて本城が態勢を整える時間を稼いだのでしょう。できれば長山砦と連携して、ある程度の打撃を敵に与えて、漸減させた状態で味方の本軍との戦いに持ち込むことをねらったとも考えられます。南小弓城は、南からの敵の侵攻に対する第一の防波堤となって、北小弓城を守る境目の城だったのです。
小弓公方足利義明のそれから
最後に前回の記事からの続きとなりますが、北小弓城に御所を置き、小弓公方と称した足利義明のその後について、簡単に紹介しておきます。
永正13年(1516)頃より、下総への勢力拡張を図る上総の真里谷武田恕鑑は、何度も原氏の小弓城に攻め寄せますが、その都度、撃退されていました。南小弓城、北小弓城が実戦で機能していたことがうかがえます。しかし永正14年(1517)10月15日、ついに城は落ちました。戦いの詳細はわかりませんが、当時、真里谷武田氏は相模(現、神奈川県)の伊勢宗瑞(北条早雲)の協力を得ていましたので、それまでよりも多い軍勢を集めて攻めたのかもしれません。攻略した北小弓城には、恕鑑が擁する足利義明が御所を置き、「小弓公方」を称しました。義明は古河公方足利高基の弟で、古河公方に対抗する新たな勢力となったのです。
義明のもとには安房(現、千葉県南部)の里見氏、上総の真里谷武田氏はじめ諸氏、下総の臼井氏、常陸(現、茨城県)の小田氏など、古河公方派ではない勢力が参集し、下総の千葉氏や下野(現、栃木県)の諸氏らが支持する古河公方と対立しました。一方、武蔵(現、東京都、埼玉県)、上野(現、群馬県)は関東管領山内上杉氏とその一族の扇谷上杉氏の勢力下にありましたが、古河公方と上杉氏は旧敵の間柄です。これに対し義明は、上杉氏と手を結びました。義明のねらいがどこにあったのか、明確な記録はありませんが、いずれ古河公方を滅ぼして唯一の公方となり、上杉氏に支持されるかたちで関東に君臨することを夢見ていたのかもしれません。
しかし、その夢は阻まれます。まず古河公方と争う以前に、義明を支える真里谷武田の家中で内紛が起こり、それを鎮めるために義明自ら出陣するなど、事態収拾に忙殺されました。結果、真里谷武田氏は弱体化してしまいます。また里見氏家中でも内紛が起こり、それに北条氏が介入して、こじれました。すでに早雲は没し、北条氏の当主は息子の氏綱でしたが、氏綱は小弓公方勢力下の混乱をついて上杉氏の武蔵に侵攻、勢力範囲を次々に広げていきます。
房総の支持基盤の弱体化、北条氏の台頭と友好関係にある上杉氏の劣勢で、小弓公方への求心力は下がらざるを得ません。ここで義明は、決断します。古河公方の勢力を叩くための出陣でした。義明にすれば、古河公方を倒してその支持基盤を自陣営に取り込み、上杉氏と協力して台頭する北条氏を討つという筋書きだったのでしょうか。また、自らの支持勢力をつなぎとめておくためにも、そうした賭けに出ざるを得ない状況だったのかもしれません。しかし義明の動きに、古河公方は北条氏と手を結び、北条氏綱に義明を討つことを命じました。
かくして天文7年(1538)、里見氏らを従えた義明は下総国府台城に出陣し、北条氏綱と戦って敗死しました。20年余り存在した小弓公方はここに滅び、北小弓城及び南小弓城は前城主の原氏が奪還することになるのです。