「プリンス・トクガワ」ゆかりの地は城跡&古戦場!? 千葉県松戸市の松戸城
前回、千葉県松戸市の松戸駅前にある城跡&古戦場「相模台城」を取り上げ、相模台城が舞台となった戦い「第一次国府台合戦」を途中まで解説しました。
途中で区切った理由は、相模台城のすぐ近くにあり、同じく国府台合戦の舞台となった、もう一つの城もぜひ紹介したかったからです。
その城の名は「松戸 城」。
しかし現在この地は別の名で呼ばれており、そこが城跡で国府台合戦の古戦場であったことは、あまり知られていません。私も最近まで、まったく意識していませんでした。
徳川慶喜の実弟・昭武
ところで、2021年の大河ドラマ『青天を衝け』をご覧になっていた方も多いでしょう。明治の実業家渋沢栄一を吉沢亮さんが熱演していました。渋沢は若い頃に徳川将軍家に近い一橋家に仕え、一橋慶喜を主君と仰ぎます。のちの15代将軍徳川慶喜で、草彅剛さんの好演も話題になりました。
そして幕府が瓦解する少し前、渋沢は将軍慶喜の命令で、将軍の名代としてパリ万国博覧会に赴く慶喜の実弟昭武に随行し、ヨーロッパに向かいます。ドラマで若き「プリンス・トクガワ」昭武を演じたのは、板垣李光人さんでした。昭武や渋沢はパリで、徳川幕府が消滅した知らせを受けます。ほどなく帰国した昭武は最後の水戸藩主となりますが、時代は明治へと移り、武士の世は終わろうとしていました。
そんな昭武は明治16年(1883)に、31歳の若さで隠居。翌年より水戸街道の松戸宿近くの台地上に、自ら築いた屋敷で暮らし始めます。それが戸定邸でした。下の写真は、幕末に撮影されたと思われる昭武です。
昭武が暮らした「戸定」とは
松戸駅から徒歩で約10分。戸定邸のある高台は現在、「戸定が丘歴史公園」として整備されています。公園内には昭武が暮らした邸宅と庭園がほぼそのまま残り、明治の徳川家の暮らしに触れることができます。また隣接する戸定歴史館では昭武の遺品や関係資料を見学でき、幕末から明治という激動の時代を生きた昭武を知るうえで、貴重な施設といえるでしょう。関心のある方はぜひ一度、訪問されることをおすすめします。なお戸定邸や歴史館の見学は有料ですが、公園自体は自由に散策できます。
さて、徳川昭武と戸定邸について簡単に紹介しましたが、戸定というのはあまり耳にしない地名でしょう。徳川家ゆかりの地なので、戸定も徳川家と何か関係があるのかと思うかもしれませんが、そうではありません。戸定とは「外城(=そとじろ)」、すなわち「城の外側の曲輪」を意味する言葉なのです。
つまり、戸定が丘歴史公園こそが、実はかつての松戸城の一部でした。
江戸川の渡河点をにらむ城
戸定が丘歴史公園まで、松戸駅からは徒歩10分程度ですが、相模台城跡の相模台公園からは、南へ5分ほど。戸定台とも呼ばれる高台ですので、すぐ目に入ってきます。私は戸定が丘歴史公園を訪れるのは、今回で2度目。最初は十数年前に戸定歴史館を訪問したのですが、松戸城跡についてはまったく知らず、手入れされた庭園だなという印象しかありませんでした。もちろん、城跡を感じさせるような痕跡があった記憶も皆無です。
「戸定みその坂」のゆるやかな坂道を上っていくと、左手に突き出したような高台が見えてきます。台地上にあるのは千葉大学の施設。戸定が丘歴史公園と地続きの台地上ですので、おそらくその辺もかつての松戸城の城域なのでしょう。
松戸城を、「松渡城」と記す史料もあります。西を流れる江戸川に面した標高約25mの舌状台地上にあり、かつては鎌倉街道下道(江戸時代は水戸街道)がその付近で江戸川を渡っていました。江戸川の渡河点をにらむ城が、松戸城であったと考えられます。築城者や築城時期などは不明ですが、戦国の頃は相模台城と同様、小金城(松戸市)を本拠とする高城氏の支配下にありました。高城氏は国府台合戦の折、小田原北条氏に味方していたといわれます。
松戸城の痕跡を求めて
戸定みその坂を上り切り、公園入口の茅葺の門をくぐる前に背後を振り返ると、相模台公園の木々や、その奥に聖徳大学の校舎を間近に望むことができます。つまり相模台城と松戸城は、それほど近いのです。国府台合戦では、相模台城に小弓公方足利義明勢、松戸城に北条勢が入りましたので、互いに敵兵の姿を視認できたことでしょう。
さて、門をくぐって今回は邸宅や歴史館に寄り道せず、まっすぐ庭園に向かいます。果たして松戸城の痕跡はあるのか……?
結論からいうと、よく手入れされた庭園で、芝生の上でお弁当を広げている家族もいるような、のどかな雰囲気の場所ですが、城の痕跡はやはり見当たりませんでした。ただ庭園内にえぐれたような深い谷があり、また庭園自体も外側に向けて傾斜していることから、ここが台地の先端であることを実感できます。
そして西には、東京外環自動車道の下を流れる江戸川を望むことができました。戸定が丘歴史公園には松戸城に関する説明は一切なく、城の痕跡も認められませんでしたが、確かにこの場所は江戸川をにらむには絶好の場所であり、それが松戸城の最大のポイントであったろうと納得した次第です。なお、隣接する千葉大学構内も城域ですので、目ぼしい痕跡はないと聞いていますが、いずれ機会を見つけて出かけてみるつもりです。
国府台合戦のゆくえ
さて最後に、前回の続きである第一次国府台合戦のゆくえをご紹介します。
天文7年(1538)10月7日、国府台城(市川市)から北方の相模台城(松戸市)に移った小弓公方足利義明の軍勢は、江戸川(当時は太日川)を渡ってくる北条の大軍を待ち受けます。この時、義明らはなぜ江戸川をにらむ松戸城ではなく、さらに北の相模台城に入ったのか、理由はわかりません。あるいは北条氏に味方する地元の高城氏の手勢が、先に松戸城を押さえていたのでしょうか。
北条氏綱を総大将とする北条軍が江戸川を渡り始めると、義明勢の中から「今こそ敵を討つ好機」と進言する者がいました。渡河中に攻撃を受ければ、北条軍が混乱することは間違いないからです。ところが義明は一笑に付します。「余は公方なるぞ。北条など、どれほどのものか。川を渡らせ、引きつけてから打ち破るまでじゃ」。己の力を過信する義明の言葉に、傍らに控えていた副将格の 里見義堯は、「我らは公方様の背後をお守り申す」と安房の軍勢を第一線から下げてしまいした。義堯は、ひそかに足利義明を見限ったといわれます。
やがて江戸川を渡り終え、松戸城に入って兵を整えた北条軍は、相模台城の足利義明勢に攻めかかりました。相模台付近で激突した両軍は、最初は足利勢が押していたものの、次第に数で優る北条軍が押し返します。乱戦の中、義明の弟や息子が討死すると、義明は激怒して、自ら敵勢に馬を乗り入れて太刀を振るいました。義明は確かに、公方を自負するだけの武勇を備えていたようです。しかし北条方の弓の名手・横井伸介の放った矢が義明の胸板を貫き、落馬したところで首を打たれました。総大将の足利義明の討死で、この合戦は北条方の勝利となり、以後、北条氏は下総へと勢力を拡大していくのです。
以上が第一次国府台合戦のおよその顚末ですが、国府台城は主戦場となっておらず、むしろ相模台合戦と呼ぶ方がふさわしいといえるでしょう。
現在のにぎやかな松戸駅前からは想像しにくいかもしれませんが、戦国時代、ここで大合戦があったことを相模台城跡、松戸城跡は無言で伝えています。そんなことを意識すると、見慣れた風景も少し違って見え、また何か新しい発見があるのかもしれません。