すまほがバキバキである。表面を撫で回すと指がキラキラする。危ない。だから、すまほケースをつけた。ちゃんとタッチに反応するし実用に耐える。ただしバーコード読取に難がある。これでええのやと思うが、電車の中などで「あれは何だ」という顔で見てジップロックとか言うなや。悲しいやろ。ぐむう。
美容整形手術でワタクシ事を切除した。入院はなく日帰りだ。「切除されたワタクシ事、見ますか?」と言われたので手に取ってみたら、ワタクシ事はふるふると震え出し転がるように手から離れた。「変なの」と思った。挨拶もそこそこに病院を出たら、蝉の声と日差しにうんざりする。そういう8月。
転がるように8月が過ぎる。ワタクシ事に振り回されヒマな奴だと思われつつエッセイをいくつかnoteに書いた。昨日も空が荒ぶりとんでもない雨が降った。短期間の降水量としては驚くべき数字だ。地球も入院したほうがよいかと思う。手術は誰がするんだろう。マザーガイアならさしずめ婦人科か。
ここ最近の暑さはこれまでの日本語の語彙では足りない。そう思っているうちに8月が去った。日中を避けて夕方に外出する。久しぶりに雲のない空。夕暮れの色が変わっていた。向かい風に弛緩した涼しさが忍び込んでいた。この感覚は知っている。夏の中に小さい秋。呼んでるくちぶえ、もずの聲。
驟雨の続いた夏過ぎて、実り豊かな秋がくる。8月の終りはその境目にあって、穏やかな秋への準備をする時間でもある。むらさめの露もまだひぬ槙の葉に、という歌はもう少し先の季節とは思うが、夏の苦労を激しい雨に流したあと音もなく立ち上がる霧に、雨を乗り切って迎える秋を実感する。
草っ原に転がる私は8月の空を見る。下旬ともなれば夕焼けの色も変わる。夏よさようなら。この夕焼けにためらいもなく心を開けそうな気がするのは、もう夏がいなくなってしまうからだろう。涼しさとともに退場する夏には、余韻を引くやさしさのような色彩を感じる。あんなにぎらぎらとしていたのに。
「何が入ってるの?」 「ハートがみっつ。ぱわあがつまってるんだ。8月の満月の夜、一斉に空へとばすのさ」 「どこにいくの?」 「ぱわあが必要な人のところへ。手術を控えた人、さみしい人、命を支えている人に」 「じゃあ私は、お水でぱわあをあなたにあげる。かわりにあの子へ届けてくれる?」
美しい女性を見て花を思う。8月は向日葵。あの女性はキク科か婦人科か。ここは笑うところである。花は短期間しか咲かずその後は転がるように……皆まで言うな。ヒマな私はエッセイのように呟く。妻は、入院して頭を手術してもらえ、と私を罵る。妻の荒ぶりを通称「ワタクシ事note」にメモする。
私は入院・手術の経験は無いが、アナフィラキシーで病院へ駆け込み抗ヒスタミン薬点滴を処方されたことがある。対応したのは研修医あがりと思われる当直バイトの女性医師。診察室で正対したばっちり化粧のつけまつげ、ファンシーな赤白ドットの靴下のインパクトを脳裏に、点滴の雫を眺めていた深夜。
産婦人科に来た。オレが入院や手術をするのではないし、病院とはいえ健康的な場所だ。男は場違いな気がする。ヒマだ。待合室で男児が駄々をこねて荒ぶり転がる様子を眺める。そういえばnoteはヒマ人のやるものと聞いた。ワタクシ事だが姪も8月生まれなのを思い出した。エッセイでも書いてみるか。
エッセイとはワタクシ事を書くものだという。短期間で書いても良い。そういえば昔は女性研究者の集まりを婦人科学と言ったとか何とか。その表現が気にいらず荒ぶりを見せた方は勢い余って転がるに至り、入院して手術までしたそうだ。あれはヒマな8月だったと、当時のnoteに記されている。
病室は骨粗鬆症の方と同室だ。調子をみて手術へ進むらしい。部屋で「骨粗鬆症等諸症状あるから初摘出手術の前に繻子の帯数種ゆず酒飲んで眺めたい」と早口で繰り返す。わざと言うてるな? さらりと繰り返す御仁なら万事うまくいくだろう。途中で噛んだら、それが普通なのでやっぱりうまくいくだろう。