若松宗雄『松田聖子の誕生』新潮新書
本書の冒頭に「この本は私の人生についての物語である。」と記されているように、松田聖子とかかわった著者の半生の記録である。
日本のアイドル女性歌手と言えば、山口百恵か、松田聖子のいずれか、または両方を上げる人が多いと思われる。松田聖子は、2曲目から24曲連続オリコン1位の記録を持つ。
この松田聖子のデビューに著者は大変苦労した。まずは父親の反対である。大牟田の社会保険事務所に勤める国家公務員で、近くに住む伯父は病院経営、兄は大学職員であり、お堅い家柄であった。これは、松田聖子の強い思いがまさり乗り越えた。著者が父親に誠実に対応していたことも功を奏した。
しかし、プロダクションがなかなか決まらなかった。著者は、ミス・セブンティーンのオーディションにおける山積みのカセットテープを聞いて、「すごい声を見つけてしまった」と心の中でつぶやいた。なんとか自らプロデュースする最初の子を探していたのだ。
著者には心あたりのプロダクションはいくつかあった。しかし、「ああいう子は売れないんだよ」と、断りの連絡が来る。レッスンをしてくれる平尾昌晃さんだけが、「あの子は見込みがあるね」と褒めてくれる。平尾さんの言葉に自信を持ったスタッフが、渡辺プロダクション本社に連絡を取っても、色よい回答はなかった。
最後は、サン・ミュージック相澤秀禎氏に直接会って懇願した。最初の答えはつれないものであったが、相澤社長の元へ日参することで所属許可が下りた。著者は前だけを見て歩いており、あきらめるという選択肢はなかった。
1980年、サン・ミュージックには既にデビュー予定の「もう1人の新人」が別にいた。しかも、レコード会社は同じCBS・ソニー。担当するのは、「ソニーの天皇」と言われた酒井政利氏。そのため聖子のデビュー日がなかなか決まらない。ここで奇跡が起こる。
「もう1人の新人」にトラブルが起こる。2月のデビュー曲で予定していた輸入シャンプーのタイアップが急遽中止になる。シャンプーに日本ではまだ認可されていない成分が含まれていたことが判明し、商品の発売もプロモーションも流れてしまう。
一方、プロモーションでマスコミ各社を回る際の好反応を受けて、サン・ミュージック内でも聖子を推す人が増えていく。ニッポン放送のラジオ番組のオーディションに合格し、放送は1980年1月から開始する。また、1979年12月から放送されたドラマ『おだいじに』では先輩・太川陽介の恋人役を演じることになる。NHKの『レッツゴーヤング』のレギュラーも決まる。
1980年4月1日、資生堂の「エクボ」という洗顔フォームのキャンペーンソングとして、ファーストシングル『裸足の季節』を発売、オリコン最高12位、30万枚を記録した。聖子はえくぼができなかったことから、歌だけであったが。
2曲目の『青い珊瑚礁』以降、スターへの階段を登っていく。TBSの歌番組『ザ・ベストテン』では、8月14日に待望の初チャートインを果たし、羽田空港からの生中継が行われた。生放送中にご両親も中継で登場した。さらに、翌週の同番組では、結婚および引退を発表した山口百恵から、直接声を掛けられる。
本書では、さらにその後の楽曲やアルバムのことなども書かれている。松田聖子がスターになったのは、本人に才能があり、強い意志があったこととともに、著者の直感の確かさであったと思われる。今では信じられないが、プロダクションの多くは、松田聖子の良さを見抜けなかった。
また、著者の「TAKE IT EASY」のいつでも楽観的で前向きの気持ちや、プロデューサーとしてのあふれるアイデア、才覚も、スターに押し上げる原動力となっていると思う。さらに、松田聖子の明るさとタレント性もある。
後書に、神田沙也加のことを8行だけ唐突に書いている。歌手デビューする直前1年間、マネジメントを担当したとのこと。なお、本書には、松田聖子の結婚および休養中のことはほとんど触れられていない。
1978年6月、初めて福岡のソニーの営業所で会った高校生の少女「蒲池法子」と著者の人生を重ねるとともに、これからの松田聖子の成長を応援し、永遠に愛されることを著者は願っている。
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