伊井直行

三菱の創業者岩崎弥太郎はユニークな日記を書き残しました。このアカウントは、現代語訳と解…

伊井直行

三菱の創業者岩崎弥太郎はユニークな日記を書き残しました。このアカウントは、現代語訳と解説で、その面白さを紹介するために造りました。伊井直行は講談社現代新書『岩崎弥太郎 会社の創造』の著者です。noteでは元は「常陸国風土記」現代語訳が目的だった『はるかな昔』という別アカウントも。

マガジン

  • 岩崎弥太郎 征西雑録・後編

    岩崎弥太郎の最近まで知られていなかった日記「征西雑録」の紹介を、マガジンとしてまとめました。その後編。長崎を旅立って高知に帰着し、旧知と交流する傍ら、長崎での不首尾の始末に終われ、結局故郷安芸に戻って暮らし始めるまでの記録です。安政七年閏三月から七月までですが、ここでの紹介は六月まで。六月以降の日記はあまり面白くないのです。

  • 岩崎弥太郎 征西雑録・前編

    岩崎弥太郎の最近まで知られていなかった日記「征西雑録」の紹介を、マガジンとしてまとめました。その前編。高知から長崎へ旅し、長崎到着後最初の一月の記録です。安政六年十月から十二月まで。

  • 岩崎弥太郎 長崎日記4(万延元年閏三月)

    岩崎弥太郎の長崎時代の日記「瓊浦日録」から四つ目のマガジン、万延元年(1860年)閏三月分です。月初めの一日から順に読むことができます。「日録」の続きとなる「征西雑録」から長崎滞在最後の三日間を付加しています。

  • 岩崎弥太郎 長崎日記3(安政七年/万延元年三月)

    岩崎弥太郎の長崎時代の日記「瓊浦日録」から三つ目のマガジン、安政七年/万延元年(1860年)三月分です。月初めの一日から順に読むことができます。

  • 岩崎弥太郎 長崎日記1(安政七年一月)

    岩崎弥太郎の長崎時代の日記(「瓊浦日録」)を頭から読めるようにマガジンにします。その初めは安政七年(1860年)一月分です。

最近の記事

弥太郎、金づる扱いされる 「青春日記」最終回

安政六年十二月二十六日 旅宿大根屋のみよ蔵が「大坂の人に雇われて小倉まで行くことになったので」昨日貸した金の返済は年が明けてからになる、と伝えて来ました。岩崎弥太郎は了承した後、「こんな懶惰の様で過ごしていては国家(土佐藩)と父母に申し訳ない」のだけれど、ゴタゴタしていて思うに任せない、とこぼしています。午前中に清の墨客林約簡宅に行き、そこにいた(清人の)僧に日本語を教えました。  午後、竹内静渓との飲酒で公金を使うかどうか、下許武兵衛とやりとりをしました(長いので略)。

    • 弥太郎、長崎で最初の反省

      安政六年十二月二十一日 右目の痛みで読書ができなかったところ、「川村(近見)氏が二宮(如山)よりさし薬と下剤を二服取って来てくれ、晩方に至って目が少し快くなった」今井、川村に防州から来た医学生も加わって酒盛り。詩吟や歌で盛り上がりました。これも「旅の楽しみだ」  明かりを灯したまま眠り、防州人と同席したせいか「頻りに(徳山藩の)本城清の夢を見た」真夜中、「失火だ」と叫ぶ声がし「起きて見ると火焔が非常に遠かったのでまた寝た」日記の最後に、午前、下許が公遊帳(長崎出張の帳簿)を

      • 長崎初心者弥太郎、それなりに楽しむ

        安政六年十二月七日 午前、下許武兵衛が「久松氏の僕者」と「木品(材木)」の取引について話をしたと記しています。午後、「竹内静渓、下許君、隅田、今井諸氏と市中を徘徊」、唐館の前からは湾に帆が林立しているのが見え、蘭館では「シイボルトホンヘ」を見かけますが、「これ蘭人の名医の由」とあり、弥太郎はシーボルトを知らなかったようです。一旦旅舎(大根屋)に戻った後、夜「同宿の諸氏」と外出して酒宴を開きました。 八日~十日 八日は午後まで読書。市中徘徊の後、下許と宿で飲んでいると大根屋主

        • ついに長崎到着 武雄~大村~長崎

          十一月三十日 午後多久を発ち、雪と寒風の中、武雄に行きました。弥太郎は送りに来た鶴田豫太郎と於保義一郎と温泉に入りました。入湯後酒を飲みつつ詩をやりとり。さらに客人が来て談笑し、深夜まで歌い、吟じ、酒杯の献酬をしました。弥太郎は「交遊の情」のため最後までつきあいましたが、途中から大汗が吹き出て心地よく飲むことができませんでした。他の見送り客は去り、鶴田と於保は「同席就枕。夜間寒さが甚だしい」 十二月一日 朝、鶴田、於保と温泉に入って酒。於保に詩を贈りました。昼に二人と別れ、

        弥太郎、金づる扱いされる 「青春日記」最終回

        マガジン

        • 岩崎弥太郎 征西雑録・後編
          12本
        • 岩崎弥太郎 征西雑録・前編
          8本
        • 岩崎弥太郎 長崎日記4(万延元年閏三月)
          8本
        • 岩崎弥太郎 長崎日記3(安政七年/万延元年三月)
          11本
        • 岩崎弥太郎 長崎日記1(安政七年一月)
          15本
        • 岩崎弥太郎 長崎日記2(安政七年二月)
          12本

        記事

          九州路を行く 小倉~博多・福岡~太宰府~佐賀~多久

          十一月十八日~二十日 十八日朝、下関で平氏一門の塚と天皇の御陵を拝した後、「便船に乗り渡海す」途中「ガンリウ(巌流)島」を見たりしつつ、九州に上陸。小倉に入って「名産の帯袴を買う」昼食後、黒崎に投宿。十九日、黒崎を発ち、「耶馬の諸山」を遠望、夕方「アゼ(畦)町」で投宿。二十日、香椎宮に寄ってから博多に入り「人家はすこぶる稠密、繁盛」の町を抜けて宿を取りました。 二十一日 朝食後に市中を徘徊、福岡に行き「空堀も広大」だが天守閣のない福岡城を見ます。宿を立つ際、主人が勘定をごま

          九州路を行く 小倉~博多・福岡~太宰府~佐賀~多久

          長州の藩校を訪ねる 岩国~徳山~萩~下関

          十一月五日 早朝から岩国市街見物の後、学館から迎えが来て藩校に行きました。「随分弘大」で、本堂に「孔聖」の像があること、書生の寮が二つ、書生は「前髪を取った童」で毎日来ること、射撃場、槍術場、剣道場があったと記しています。「学館の係の人は下許君と蝦夷地辺りの風気(風俗)について盛んに談じていた」(下許武兵衛は土佐藩から蝦夷地調査に派遣されたことがある)  夜、学館の人が宿に迎えに来て、遅くまで談話。岩国藩では、文武の試験通過が仕官のために必須で、四十歳までに合格できないと隠

          長州の藩校を訪ねる 岩国~徳山~萩~下関

          山陽道を西へ 尾道~広島~岩国

          十月二十八日 晴天。明け方に出航、舟は「景色絶佳」の瀬戸内海を進んで御手洗港へ。再び港外に出た後、追いかけて来た漁船から新鮮な鯛や酒を買い、乗り合わせた婦女らと酒宴になりました。「盃が飛び交い、婦女は三弦を行李から取り出して頻りにひくので、とても面白かった。大分泥酔して舟の底に臥した」  舟は穏やかに進み、沖から三原城が見えました。水夫が残った酒を温め、魚を焼いて盃を交わします。尾道に着く頃には日が暮れ、「岸上の家の灯火の影が水面にさしている」舟は岸壁下に到着、水夫の案内す

          山陽道を西へ 尾道~広島~岩国

          旅の始まり 高知~道後温泉~松山~三津浜港

          安政六年十月二十一日 長崎方面へと送り出された。出発前に公金五十金を封のままで受け取って帰ると、同じ社中(同社)の者が四、五人来て別れの盃を酌み交わした。大いに酔って、ようやく黄昏前に緑幽亭を出発した。下許武兵衛殿は早い時刻に先発したと承っていたので頻りに足を早め、夜八時を過ぎる頃にようやく井野町に着いた(以上、原文直訳)。  案内人が下許のいる町家に導き、そのまま床に臥しました。 二十二日~二十四日 二十二日は早起きして月の光の中で舟を呼び、川を進みました。その日は、岡林

          旅の始まり 高知~道後温泉~松山~三津浜港

          旅の終わり 故郷安芸への帰還

          六月十日 「南風が激しく緑幽亭の茅屋根が少々吹きはがれ一方ならず慌てた」助けに来た人が上屋を繕い、午後には風雨がやんで快晴に。「おだやかに晴れた夜空に月の光が輝き、甚だしく快い。明け方、布団の中で檐から水が滴る音を聞いた」 十一日 岡林常之助(閏三月三十日の記事を参照)の兄が来たので、義兄と共に酒を出して饗応し、「枕を並べて寝た」 十二日 「雨不出戸」の一日でしたが、夜には、安芸に帰郷の予定なので、と栗尾大作を訪ね、「宗門入りをよろしく」と頼んで、深夜遅くに帰りました。

          旅の終わり 故郷安芸への帰還

          高知の日々 不首尾の後始末

          六月一日 早朝、役人を訪ねて長崎往還の旅籠代について問い合わせ、上司下許武兵衛の分と帳簿上合わせて精算するという回答を得ました。その後、義兄吉村喜久次宅の離れ緑幽亭の茅葺き屋根の葺き替えを行いました。「日雇い(の職人)が二人来た。余は一人下にいて、茅を捧げ、塵を払い、終日奔走した」 「日暮れに家を掃除するときれいになり、さっぱりして嬉しかった。小酌、微酔。明かりを灯して荘子を読もうとしたが間もなく眠りに落ちた」弥太郎はきれい好きで、日記に掃除したことを何度も記しています。

          高知の日々 不首尾の後始末

          高知の日々 長崎での不首尾がたたる

          五月二十二日 午前中、土佐藩参政吉田東洋に向けた書を認めました。午後、昼寝の後「小酌、微酔」状態の弥太郎に、支配頭水野幾七から、明二十三日昼に役所に罷り出るよう伝えて来ました。「多分長崎勤めの際の不調法へのお叱りだ」と察し、口裏を合わせようとしたのか、下許武兵衛のところに行ったものの留守でした。 二十三日 朝、浴場。「小酌」の後、義兄吉村喜久次と共に支配方へ行きました。その後、支配頭に同道してお目付方に行った後、吟味場に参上すると、「かち目付」尾崎源八が「その方、先だって長

          高知の日々 長崎での不首尾がたたる

          高知の日々 上司の下許が長崎から帰着

          五月三日 早起きして朝食後、大人(父親)と温酒で高知への門出を祝いました。午前八時頃家を出、作蔵を訪れて立ち話をしました。途中、一人で酒樽を担う人がいて、弥太郎と同じく井口村から高知に行くというので奇遇を喜び話をしながら同道しました。日よけに小笠を買い、乗り合いの舟を利用するなどして、日暮れに吉村喜久次宅に着きましたが、喜久次は不在で、「阿姉(お姉さん)」が温酒と食事で迎えてくれました。 四日、五日 四日は風邪気味で吉村家の離れ「緑幽亭」から「不出戸」でしたが、「吉村先祖祭

          高知の日々 上司の下許が長崎から帰着

          故郷安芸での日々

          二十二日 早起きして安芸へ帰郷の支度。義兄吉村喜久次が井野大黒天に参拝に行く門出も兼ねて温酒を飲み、午前九時過ぎに出発しました。「不晴不雨」途中、弟の岩崎弥之助と合流。その後、知り合いに出会ったところ、弟を馬に乗せて連れて行ってあげると申し出があり「雀躍に堪えず」弥之助はまだ九歳、故郷へはやる岩崎弥太郎の早足について行くのは難しかったでしょう。途中小雨に降られましたが「騎虎の勢い」「奮然疾走」、安芸の実家に着くと、父親は大変に喜びました。麦飯と塩梅の夕食。 ああ、前日は長崎

          故郷安芸での日々

          高知 旧知との交遊、藩重役からの詰問

          四月十四日 高知市内の「南北の奉公人町を過ぎて浴場」後に出勤、御目付方の下横目から帰国の届けが役場に出ていないと指摘され書面を作成しました――私儀、三月三十一日に長崎を発ち、四月五日に用居(の関所)から国に入り、同七日高知に帰着しました、と。これを御目付所と後勘定所に出し、「それで事がすんだので帰った」帰途、訪ねた先で「盃を傾け」、帰寓後には来客と夜遅くまで飲酒。夕方、「母君」が帰路につき市内の親戚宅に行きました。 十五日 「午前、崎陽蕩遊録を検し、かつ認めた」その後、親戚

          高知 旧知との交遊、藩重役からの詰問

          高知、再会と悔恨

          四月八日 早起きして長崎での経費を記録。義兄吉村喜久次が帰宅したので、急な帰国の事情を説明しました。昼から「酒を飲んで大いに愉快」一眠りすると夕方、それからも飲み続け話が弾みます。が、寝ようとすると長崎での遊蕩が思い浮かんで来ます。後悔し、心配になって「心神がこのために安まらない」 九日 出勤するつもりでしたが、今日は「悪日」なので明日にすべき、と姉妹から助言があり、雨も降っていたので「引き籠もる」。池内蔵太が、「小野叔父」から弥太郎帰郷と聞いて来訪、「談話を久しうした」。

          高知、再会と悔恨

          大洲~四国山地~高知

          万延元年四月三日 薄曇り。早起きして朝飯後に八幡浜を出発。宇和島の関で往来手形を見せて大洲へ。城に登って辺りを眺めた後、「やや繁盛した街市」の宿屋で食事。その後、山道を歩んで甚だしく疲れ、大瀬という小村で宿を取りました。隅田と対酌し、飯を食べて就寝。「夜明けまで雨の声が聞こえた」 四日 雨の中、狭く険しい山道を歩き続けました。昼、小村で菜根茶と梅の接待を受け、食事。再出発後、雨で服が湿ってしまいました。山道はさらに険しくなりますが、隅田敬治と励まし合い、七鳥まで「疾走」しま

          大洲~四国山地~高知