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高知の日々 不首尾の後始末

六月一日 早朝、役人を訪ねて長崎往還の旅籠代について問い合わせ、上司下許武兵衛の分と帳簿上合わせて精算するという回答を得ました。その後、義兄吉村喜久次宅の離れ緑幽亭の茅葺かやぶき屋根の葺き替えを行いました。「日雇い(の職人)が二人来た。余は一人下にいて、茅を捧げ、塵を払い、終日奔走した」

「日暮れに家を掃除するときれいになり、さっぱりして嬉しかった。小酌、微酔。明かりを灯して荘子を読もうとしたが間もなく眠りに落ちた」弥太郎はきれい好きで、日記に掃除したことを何度も記しています。

二日 朝、下許武兵衛を訪問した後は読書をして過ごしました。

三日 午後、ひどく発熱。読書をしようとして「覚えず仮睡」。夕方、酒を飲み、庭を掃き、また読書。

四日 朝、読書。午後、吉村三太を訪ねて談話と酒。一緒に池内蔵太くらたを訪ね、もう一人を加えた三人で「手に小さな酒壷を持ち、鏡川を遡った」畷手なわての店でつまみを用意させて飲み、真土場まつちばの水辺で水練をしました。その後「団欒し盛んに盃を交わしていると地上すれすれに新月が出た。何度も箸拳をし、日が暮れると畷手の店に戻って再飲し、時を過ごした。団子堂の西で余は諸氏と別れ、寓舎に戻った」

五日 昼過ぎに村山又七を訪ね、長崎での出費の精算について相談すると、詳細は追って詮議の上で沙汰をするとのことでした。栗尾大作を訪ね、「宗門入り」について、明日出勤した際に詮議してもらいたいと頼んだ後、酒を飲み談話。夜が更けてから帰りました。

六日 朝、三太に「宗門養育」の件で、目付による「御詮議」について問い合わをしてもらいたいと頼みました。緑遊亭に戻り、飯の後、臥して読書していると「不覚、仮睡。昼過ぎに目を醒まし、庭を掃除した」「この日は当地の祇園祭」、三太、内蔵太を含む来客がありました。夜まで酒を飲み、その後一緒に「シンチの画燈」を見物に行き、「祇園石燈の辺りを徘徊」して解散、帰りました。

七日 朝食の後、栗尾大作、三太を訪ねて先日来の懸案について相談したところ、いずれも取り計らいが難しいとの返答。三太から、願いを「紙面」で出すよう勧められ、「願書」を書いて託しました。さらに下許を尋ねるも不在。帰って庭の掃除をした後、下許が来て話をしました。この日、「御勘定方中ノ間」からの呼び出しが届きました。

八日 午後、「御勘定方中ノ間」に行ったところ、上級の役人はすでにおらず、下級役人と話をし、長崎の公費の精算については「小頭所」から命があるはず、と聞きました。その後も人を訪ねて歩き、栗尾と昨日に続いて話をしました。この日は「江の口御神祭」で、家で来客と飯を食べ酒を飲んだ後にまた外出し、夜が更けて帰ると「何分心気が疲労し、寝た」

九日 朝、「御勘定方中ノ間」に行き、役人に事の経緯を色々と説明した上で精算し、三十四両を返上することで決着してたしかに合い渡シ置く」ことができました。「微雨。夜半を過ぎたころから雷、風、雨が夜明けまで続いた」

 この頃、岩崎弥太郎は長崎での不始末に関わる二つの件で奔走していました。どう決着したのか、残された記録からは明確でないのですが、私は次のように推測します。

 一つは、付与されていた下士としての身分を取り下げられるのを、「宗門入り」をして(仮の養家の宗門人別帳に正式に入り?)守ろうとしたこと。しかし、「名字唱之家」(公的な場、正式の文書で名字を名乗れる家門? 双刀を許される)には入ることはできなかったようです。この後安芸に戻り、「両刀」を失って面目ないと「雑録」に記しています(6月14日)。

 もう一件は長崎で濫費した公金の精算。こちらはおおよそ弥太郎の意に沿う形で決着したようです。返済の原資がどこから出たのか精確には不明ですが、「雑録」には岩崎家と縁の深い作蔵から三十両を渡されたことが記されています(5月29日)。大正時代に弥太郎の長男岩崎久彌の主導で編纂された『岩崎東山先生傳記』(「東山」は弥太郎の号)には、安芸の酒造家から百両融通されたとありますが、これは「雑録」発見以前の不確かな記述と思われます


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