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高知、再会と悔恨

四月八日 早起きして長崎での経費を記録。義兄吉村喜久次が帰宅したので、急な帰国の事情を説明しました。昼から「酒を飲んで大いに愉快」一眠りすると夕方、それからも飲み続け話が弾みます。が、寝ようとすると長崎での遊蕩が思い浮かんで来ます。後悔し、心配になって「心神がこのために安まらない」

九日 出勤するつもりでしたが、今日は「悪日」なので明日にすべき、と姉妹から助言があり、雨も降っていたので「引き籠もる」内蔵太くらたが、「小野叔父」から弥太郎帰郷と聞いて来訪、「談話を久しうした」。昼に喜久次が帰って来ると、三人で「温酒」を飲み「箸陣(箸拳)」、「余程愉快」一眠りして夕方になり、雨が激しくなる中、内蔵太は明日の約束をして帰ります。その後、長崎での会計記録を検している内に「また眠った」

 池内蔵太(1841~66年)は、岩崎弥太郎が高知神田村に蟄居した時に開いた学塾の門弟で、後に亀山社中に入って坂本龍馬に嘱望されたものの、若くして海難事故で亡くなりました。「小野叔父」は弥太郎の母美和の兄弟。兄順吉は土佐勤王党の武市瑞山たけちずいざん半平太はんぺいた)と、弟篤治は坂本龍馬と親交がありました。内蔵太と龍馬の関係には小野家の兄弟が関わっていたかもしれません。

十日 「午後下元氏を訪れ、下許君より預かっていた薬とオランダ酒と書状一通を慌ただしく渡した。それより支配方へまかり出て、この度の帰国の主意を申し上げたところ」、指示があってすぐさま御仕置所に赴き、詰めていた役人に長い陳述をして帰りました。「少シ心持も悪しく徐歩(しずかに歩いた)

「征西雑録」に出て来る役所名や人名について、日記を理解する上で重要なもの以外は注釈をつけません。不明の点も多いためですが、必要な場合は後からでも補足します。

 生野泰吉を訪ねて「少し湿酒」していると、岡崎菊馬が現れて豈計あにはからんや、岩崎氏がここにいる」と驚き、吉村三太も来たので三人を連れて義兄宅で酒盛りをしました。その後で泰吉宅に行き、しこたま酒を飲んで夜中を過ぎて帰りました。「街市寂然」ようやく義兄宅に戻ったものの「寝所にたどり着けず、そのまま上がり口に倒れ臥す。鶏の声を聞いてようやく醒め、急いで起きて布団に入った」

十一日 午前、御勘定方から命じられて出勤。下許武兵衛から預かっていた御仕置所への書状を持参、談判をした後に提出。勘定小頭らと「鎮西の談」をしました。帰宅して「喫飯」後、約束をしていた岡崎菊馬宅を訪れ、昨日と同じ顔ぶれで酒盛り。「飲み且つ談じ、囲碁を打ち、一弦琴を弾く」「夜中を過ぎて三太は倒れ臥し、泰吉は留まったが、余は辞して帰った、飯を食って寝た」

「鎮西の談」は、長崎を中心とした九州西部の情勢をめぐる談話だと推測できます。幕末の政治が不穏になっていく中、外交と貿易の最前線である長崎から帰った弥太郎の話には興味が持たれたはずです。翌々日に小野叔父と池内蔵太が二人して弥太郎を訪れたのも同様の動機だったでしょう。

十二日 雨。不出。崎陽きよう蕩遊録を認めた。独酌、微酔し寝た。(この日の日記全文。「崎陽(長崎)蕩遊録」は「瓊浦けいほ日録」のことでしょうか? 別の記録が残っていたら面白いのですが)

十三日 午前中、「小野叔父や池内蔵太が来訪し長崎の形勢について色々と談話」。「御目付方より明日午前に罷り出る」よう指示が来ました。午後、内蔵太が去る時に、夕方の約束をしました。そこに隅田敬(治)が現れ、二人して市中で「対酌」し夕方に別れた後、「池氏」に赴き、他の人も含めて「箸陣の技を競い合う」。その後、一緒に散歩して月鏡川へ。しかし、弥太郎は「明日の出勤のことが気にかかり……格別不快」だったので、別れて家に帰りました。すると、故郷の母がいて「驚喜」、長い時間話をした後で寝ました。


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