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旅の終わり 故郷安芸への帰還

六月十日 「南風が激しく緑幽亭の茅屋根が少々吹きはがれ一方ならず慌てた」助けに来た人が上屋を繕い、午後には風雨がやんで快晴に。「おだやかに晴れた夜空に月の光が輝き、甚だしく快い。明け方、布団の中でのきから水が滴る音を聞いた」

十一日 岡林常之助(閏三月三十日の記事を参照)の兄が来たので、義兄と共に酒を出して饗応し、「枕を並べて寝た」

十二日 「雨不出戸」の一日でしたが、夜には、安芸に帰郷の予定なので、と栗尾大作を訪ね、「宗門入りをよろしく」と頼んで、深夜遅くに帰りました。

十三日 翌日の出発に備え、書籍などを整理して行李の荷物に併せました。午後、下許武兵衛宅に行くも会えず、借りていた本を返却。その他、何人かを訪ねました。

十四日 朝、やや遅い時間に出発。夜になって家に帰り着きました。「長崎のことで譴責けんせきを受けたのは承知だが、自らはばかるところはない……またまた双刀を脱いで家に帰って来たのは……何とも面目なく、いささか慚愧に堪えない。両親は元気」

十五日 長崎での公金濫費の返済を助けてくれた作蔵が来て、酒を汲み交わし、弥太郎は江戸行きの志を談じました。

十六日 この日も作蔵と江戸行きについて話しました。またも出資を仰ごうとしているのでしょうか? しかし「大人(父親)」の心持ちを考えると「思うに任せない」

 弥太郎が江戸行きを考えたは、再度の留学のためでしょう。江戸の師安積艮斎あさかごんさいは、弥太郎の突然の帰郷の後、才を惜しんで江戸に戻ることを求める書簡を送っています。開港後の長崎を見て、なお儒学者の道を考えていたこの頃の弥太郎には、先見の明はなかったことになります。

十七日~七月九日 安芸に戻って日が経つほどに、弥太郎は故郷の日常の中に呑み込まれ、日記には文の冴えが見られなくなります。実際、農地やら年貢やら庄屋や農民との関係やら、弥太郎は様々な問題に悩まされます。また、長崎滞在中遠くから尊敬の念を示していた父親も、一緒に暮らし始めるとやはり大変な人物だったようです。この間の日記から二日分、興味深い記述をピックアップします。

十八日 弥太郎は自室と定めた「米倉の上階を掃除」しました。この日、自宅で作蔵と酒を飲んでいると、作蔵から長崎滞在終わりの頃の生活を責められ、弥太郎はその口の利き方が気に触って「米蔵の上に入った」目下とみていた作蔵から叱られ、気分を悪くしたようです。帰途の隅田敬治の時と同様、借金による人間関係の不利な変化を弥太郎は正直に記しています。その後、作蔵と円満に交際を続けたのも隅田の時と同様で、弥太郎は自分を軽んじて来た相手と衝突するようなことはせず、そもそも滅多に怒りません。

十九日 午後、江戸行きのための書籍を借りに小野叔父宅に行きました。「何分(両刀を禁じられ脇差しの)短刀しか身につけていないので、少し残念で恥じる気持ちがあり、道を(他人に会いそうにない)田んぼの間に取った」ここでも、我が身の情けない情況を正直に書いています。それでも故郷の親戚は弥太郎に温かく、叔父は酒を出して応接してくれました。

 1860年(万延元年)の帰郷後ほぼ7年間、弥太郎は基本的に安芸で過ごします。1861年(文久元年)、岩崎家の郷士の格を回復し、弥太郎は結婚をしました。その翌年、弥太郎は土佐藩主の参勤交代に隊中として随行しましたが、途中で帰されています。下級警吏としての職を得たり、土佐藩の文明化と殖産興業の計画のために出仕したりもしましたが、いずれも自ら身を引き長続きしませんでした。

 三菱の創業者岩崎弥太郎が生まれるきっかけとなる二度目の長崎行きは、1867年(慶応三年)のことでした。弥太郎は、私生活はある程度充実していたものの、二十代後半から三十代半ば近くまで、自らの人生の行方を知らないまま暮らしていたのです。再度の長崎行きを弥太郎がどう感じたのか明確な記録はありませんが、最初の長崎行きの経験は、厳しい人生修行でもあった二度目の長崎滞在を成功させる基盤だった、と考えられます。

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