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長崎初心者弥太郎、それなりに楽しむ

安政六年十二月七日 午前、下許武兵衛が「久松氏の僕者けらい」と「木品きしな(材木)」の取引について話をしたと記しています。午後、「竹内静渓、下許君、隅田、今井諸氏と市中を徘徊」、唐館の前からは湾に帆が林立しているのが見え、蘭館では「シイボルトホンヘ」を見かけますが、「これ蘭人の名医のよし」とあり、弥太郎はシーボルトを知らなかったようです。一旦旅舎(大根屋)に戻った後、夜「同宿の諸氏」と外出して酒宴を開きました。

八日~十日 八日は午後まで読書。市中徘徊の後、下許と宿で飲んでいると大根屋主人が加わり、浄瑠璃を語りました。九日午前、九州で亡くなった先祖を仏寺で供養(家人に頼まれていた)。午後、儒者と談話、学校の本を貸してもらえたら云々。その後、静渓、下許と市中徘徊。酒楼で夜になるまで酒。十日、雨で寒く終日読書。静渓が来談。下許と蕎麦店へ。酒は飲まず。

十一日~十三日 十一日、午後浴場に行くと婦女と混浴で混みあい「汚穢おえ甚だしい」湯に入らずに帰りました。十二日、「隅田兄」と「二宮先生」を訪ねるも不在。帰途、九日に会った儒者と詩の談義。夕方、静渓、下許と三人で久松善兵衛を訪ね、「材木品」取引の話の続き。ただし善兵衛本人は「病臥」で会えず。その後蕎麦屋で小酌。夜、帰ると「今井順正が客と酒を飲んでいたが、余は布団をかぶって寝た」十三日は読書以外に行動の記述がなく、下許と店での出費の記帳について話し合ったことが記されています。

「二宮先生」は蘭学者、蘭医の二宮如山じょざん(敬作)のことと思われます。隅田と今井は如山の蘭学塾に出入りしていました(今井は塾生)。ここで隅田敬治は「隅田兄」と記されており、隅田は弥太郎より年上のようです。その後、対等か弥太郎優位のような関係になりますが、最後にまた逆転します(下記の記事を参照)。

十四日 朝食後、浴場に行った帰り、山上にある唐寺に上りました。墨人(墨客)林約簡の借宅に行くと、一室の四方が瑠璃ガラス窓でした。寺に入ろうとして、広東人に、どこから来たのかと問われ、弥太郎が「吾は大日本国人だ」と大声で答えると、彼は大笑いしました。その後、二度訪ねて不在だった静渓が旅舎に来て、土佐と長崎の交易について談じました。内容は略しますが、別の有力商人小曾根六郎がこの話とかかわっていることが判明します。その後、帰国する人の送別会で今井順正らと酒、歌で楽しみました。

 小曾根六郎(乾堂けんどうは長崎で外国貿易や古物商を営む豪商で、文人としても知られています。坂本龍馬や勝海舟の後援をしたことで有名ですが、弥太郎らが接したのは両人が長崎に来る前のことです。下許と弥太郎には小曾根がどうも怪しく見えていたらしく、日記にはあまり良い風に書かれていません。

十五日・十六日 十五日、伯母へ贈るための眼鏡を買い求めました。二宮如山に話を聞きに行き、晩飯後には静渓が来談。その後、故郷の親戚、知人に手紙を書きました。十六日、朝食後、長崎滞在中の学課(「瓊浦日録」に再度記載。下のリンク参照)を定めた後、帰郷する知人を送りに出ました。「細雨で薄暗く、帰郷したい思いが強くなって、とても寂しい」昼食後に下許と静渓を訪ね、帰途、青木某(二宮塾生青木軍平)と会いました。

十七日 居室から階下に下りず。夜になって下許と「蘭語訳生」宗太郎と小酌。宗太郎から、イギリス人が黒田甲斐候(秋月藩)の屋敷に小銃を撃ち込み、幸い負傷者はいなかったものの、英人は単なる過ちと開き直り、役所は「因循姑息」で何の取り計らいもしない、との話を聞きました。酔って眠くなったものの、皆が近所で催される浄瑠璃に行くというので「追随」、「お染久松情死」(『新版歌祭文』)が終わって帰りました。

十八日~二十日 十八日、夜明けと共に起きて読書。寒さ甚だしい。午後下許と浴場。帰宿後も読書。後、蕎麦屋で下許らと小酌。十九日、目覚めると辺りは雪でした。下許と今井が「清水仏閣観音」を見たいというので「追随」。登ると「眺望絶佳」帰っても読書。静渓が来て小酌。二十日、厳寒。時々あられ。静渓が来て、久松寛三郎が土佐に椎茸を注文したいとの話。下許と、「蘭訳」中村壮太郞(上記、宗太郎か)と一緒に酒楼に行き「随分愉快」となりました。


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