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日本語の美しさとヨルシカにみる世界
日本には、日本語という世界で一番と言っても良いほどの言語がある。
その日本として、言葉としての美しさを感じられるものが古くから伝わっている。
それは、和歌だ。
奈良時代、平安時代などの古くから時を経て伝わる物語や随筆、歌集がたくさんある。
今日はそんな話をしていきたい。
『万葉集』や『古今和歌集』、『新古今和歌集』など有名どころなものがある。
奈良時代、平安時代と時代を超えて、少しずつ詠む背景や歌の特徴・技法も変化しながら愛されてきた。
5・7・5・7・7のたった31語で、広がる景色や抱いた心情を語る和歌の持つ魅力は計り知れない。
貴族の詠む歌。平民が詠む歌。
それぞれ様々な苦悩や心情の動きがあり、1つ1つの和歌が持つ背景を知ることで歌の魅力がより一層深まる。
そして、詠まれた情景を想像してみる。
きっとそこには、美しい限りの景色・悲しい夕暮れなどの情景が広がっていたはずだ。
同時に、楽しい、悲しいなど様々な喜怒哀楽もあったはずだ。
情景と心象を組み合わせて詠まれた歌の数々に、現代でも通じる心の動きを感じ取れる。
思うに、この時から、日本には語らないことに美徳があるように感じる。
「日本では、本音を言わない。」と世界の人々がおかしいと意見したり、よくわからないと困ったりされる。
しかし、それは、日本の風習や日本語の洗礼された1つの大きな特徴なのである。
和を重んじるという論法で返されることが多いが、そうではない気がしている。
日本は、言葉の奥にある意図を汲み取る想像力や共感力がある。それも、世界一のレベルであるのだと思う。
だから、日本では無言でも伝わるメッセージがあるのだ。
さて、話を戻そう。
和歌には、男女の契りを交わす際の手紙としても使われていた。
昔は、今のように会いたい時に会えるものではなく、日の沈んだ夜にしか会うことができなかった。
男性が女性の家に通い、契りを交わすことで交際が始まる。
しかし、どのようにして知り合うのか?
それに使われたのが和歌である。
男性から手紙を送り、女性がその手紙に返答をする。
そうして、幾度と手紙のやり取りを行ったのちに、初めて対面となる。
当時は、今のように明かりも無い、真っ暗な世界が広がっていただろう。
そのため、お互いの顔も見ることもなく、契りを交わす。
そして、明け方に初めてお互いの顔を見るのだ。
このような自由の少ない恋愛に、和歌は非常に大きな役割を持つのだ。
和歌が相手を口説くものになる。
そのため、当時の人々は和歌の技法を磨こうと必死であった。
そうして、生まれた数々の和歌が今の時代にも伝わってきている。
会えない日々を嘆く歌。
情景を見事に詠む歌。
祝いとして贈られる屏風に描かれた情景を詠む屏風歌。
相手の和歌に対する返答歌。
本歌取りを通し、新しく詠む歌。
そのどれもが美しく、言葉の持つ魅力を私たちに伝えてくれる。
心の感じ方をしっかりと捉え、目に映る情景に照らし合わせて詠む歌がある。
昔の人は、今の人よりも心の捉え方がうまかったのかもしれない。
不自由の多い生活であったと思われるが、実は今の人よりも幸せを感じていたのかも。
そんな想像も膨らませてくれるから美しい。
この和歌のような世界をヨルシカはリスペクトしているように感じている。
まず、有名なものとして、『都落ち』は万葉集にある但馬皇女が詠んだ歌から作られた。
人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る
この歌は、「二人の関係に対する噂が跡を立たなくなり辛いので、私の人生で渡ったこともない川を、誰もいない朝方に川を渡ってあなたに会いにいきます。」という歌。
当時、男性から女性に会いに行くのが通例である。
しかし、この歌は女性から男性に送られてた歌であり、そこまであなたを思っているのです。という愛に溢れた歌なのだ。
人目を避けながら恋をしないといけない身分の苦しみであったが、「好き」という感情に素直に向き合う、切迫したような思いが感じ取れる。
また、ヨルシカの楽曲では、エルマとエイミーの2人の人物を通したストーリーが描かれている。
初期アルバム『だから、僕は音楽を辞めた』。2作目のアルバム『エルマ』。
2作目では、エルマがエイミーの人生を模する旅に出かける。そのような世界が描かれている。
この2つのアルバムに収録された歌の数々が、エルマとエイミーのストーリーを展開しているのだ。
アルバムを通した、お互いの返答歌が収められている。
例えば、以下のようなものである。(左、アルバム『だから、僕は音楽を辞めた』。右、アルバム『エルマ』。)
『藍二条』ー『憂一条』(藍=I、憂=You。二条と一条が対。)
『八月、某、月明かり』ー『夕凪、某、花惑い』
『六月は雨上がりの街を書く』ー『雨晴るる』
『夜紛い』ー『心に穴が開いた』
『踊ろうぜ』ー『神様のダンス』
『パレード』ー『声』
これら、対の音楽を聴いていただければわかるのだが、それぞれ共通する歌詞が使われているもの同士がある。
こういったやり取りの歌。それは、まるで、返答歌とも本歌取とも言えそうな美しい世界が広がっているのだ。
現代版、返答歌。そんな気配を感じる。
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また、屏風歌としてアルバム『幻燈』もあるのではないか?
『幻燈』は音楽画集として作られたアルバム。
n-bunaくんのコメントでは、NFTといった最新の技術を通した作品を作りたいという思いから手がけたとされている。
この根底にも屏風歌に見られるような世界もあったんではないか?と密かに期待をしている。
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屏風は、当初何かの祝い事などで送られるものであった。
その屏風に描かれている風景を和歌にして、屏風と合わせて送るのが屏風歌であった。
『幻燈』も絵画を読み取ることで音楽が再生される。
まるで、画集に音楽を合わせるように私たちは楽しめるのである。
あぁ、なんと美しい。。。
そして、ヨルシカの楽曲は、文学作品からのオマージュであったり、言葉の1つ1つが綺麗なのだ。
それは、まるで日本語の良さを研ぎ澄ましたかのように紡がれたようである。
まさに、日本語の美しさ、日本語に対するリスペクトを感じずにはいられない。
これも、n-bunaくんの凄さなのだなぁとつくづく感じてしまう。
和歌に見るヨルシカの世界観。
いかがでしたでしょうか?
和歌を楽しむと新しいヨルシカが見えてくる。
どんどん好きになっていく。
楽しみがどんどん深くなってくる。
やっぱヨルシカって最高だ!