恋愛に依存しなくなる「人生を変える世界の見方」と生きるうえで一番大切なこと
昨日のつぶやきについて、今日はもう少し自分自身でも深掘りをしながら記事を書いてみようと思う。それは、恋愛だけの話ではなく、愛やしあわせってなにかとか、友情ってなんなのかとか、生きるってなんだろうってところまで話が広がっていく予感がしている。かなり長文になりそうだけれど、とりあえず、いってみよー!
「パートナーシップに悩んでいる=彼氏(パートナーや夫)に依存している」という風に安易に解説されがちだけれど。そしてその解決方法は、「男に追われる自尊心や自己肯定感があり、自立している魅力的な女性になること」という解決策をだされることが多い。
多いというか、世の恋愛指南書はほぼ100%その定義に則っているのではないかと感じる。
でもさ。
実は違うんじゃないかと。
思ったわけなのですよ。
「パートナーシップに悩んでいる=彼氏(パートナーや夫)に依存している」ではなくて、「パートナーシップに悩んでいる=愛されているという安心感に飢えている」のが世の乙女たちの本当のところではないのだろうかと。
それって同じように聞こえるかもしれないけれど、北極と南極が同じではないのと同じレベルで、似ているけれどまったく異なるものなのじゃないかと。そうなのであれば、解決策も本当は全然違うものになるんじゃないかと。
思ったわけなのでございます。
要は、「愛されている」という実感を得たいんだよね。それはつまり、愛されていないとか、愛される価値が自分にはないって想いが根底にあるのかもしれないよね、ということ。そして、「愛=恋愛(パートナーシップ)」っていう定義が一般的にまかりとおっているから、世の乙女たちは恋を追い、恋を求め、恋に悩むのではないかと。
でもさ。
「愛」という言葉の定義をもっと広げてもいいんじゃないかって最近思う。
親や家族が子を思う気持ちも愛。
親友があなたのことを思う気持ちも愛。
あなたがあなたのことを思う気持ちも愛。
全部、かたちは違っていても、全部愛なのではないかと。
そのことに気づくことができたら、自分はこんなにも愛に囲まれていると知ることができるのではないかと。
そのことに気づくことができたら、彼氏やパートナーからハグしてもらったり、愛の言葉をかけてもらうことだけがあなたに与えられうる「愛のすべて」ではないのかもしれないとわかるのかもしれないかと。
そのすべてが理解できれば、彼氏やパートナー "だけ" に愛を求めようとする必要がなくなって、自然と自己肯定感もあがり、自信もつき、彼氏に依存したり恋愛に自分のすべての価値を見出そうとしてしまう連鎖から抜け出せるのではないかと。
そんなことを思ったわけ。
(もちろん、すべての人や状況に当てはまるわけではないと思うけれど)
愛ってなんだろう
そもそも論、愛ってなんだろう。
それを平たい言い方にすると「自分のことよりも相手のしあわせを純粋に心から願うこころ」なのかもしれない。
そして、「愛されている」とはどういう感覚や状態をいうのかというと。
「自分はひとりじゃない」
「自分のことを大切に思ってくれている人がいる」
「助けを求めたら、ちゃんと助けてくれる人がいる」
そういう「安心感」や「ありがたい」って思える感覚や状態じゃないかなって、最近思っている。
そのことを、最近つくづくと実感する。
わたしはこんなにも支えようとしてくれる人、助けになろうとしてくれる人、守ろうとしてくれる人、気にかけてくれる人がいる。それは全部まとめて「愛」じゃないだろうかと思ったの。
数ヶ月前、わたしはうつ状態になった。なにをしようとしても力が出なくて、涙がポロポロと止まらなくて、呼吸するだけでつらくて仕方なかった。夜眠ることもできなくなって、通勤すらしんどくなって、過去のフラッシュバックも頻発しはじめ、パニックを起こすことも増えた。子どもと同じ空間にいてあげることが自分にできる最大限だった。
「やばい」と思った。
これは、本気でヤバい。
マジで壊れる5秒前。(いや、既に壊れてた?笑)
そんなとき、「子どもの面倒をみておくから、あなたは少し家を離れてゆっくりしなさい」と、一度は絶縁までしようとした家族が言ってくれた。
博士論文の締め切り1ヶ月を切っていた友だちが「うちに泊まりにきてくれていいよ!」と言ってくれた。自分も博士号論文の執筆でてんてこまいなのに、ぼろぼろと涙を落として泣き崩れるわたしの話を何時間も聞いてくれた。数日間、滞在させてもらった。いっぱい話を聞いてもらって、背中を押してもらって、勇気を分け与えてくれた。
その勇気を背に、震える手で行政が提供している相談室に電話をかけた。
今の自分の状態を伝えて、どうすればいいのかのアドバイスをもらうために。
正直、めちゃくちゃ怖かった。本気で怖かった。母親失格認定のハンコを押されるんじゃないかと怖くて仕方なかった。
電話に出てくれた人は、一通りわたしの話を聞いたあと、「お母さん、ここまで本当につらかったですね。ひとりで頑張ってこられましたね。ここに電話するのも、本当に勇気がいりましたよね。それでも頑張って電話をかけてくれて、本当にありがとうございます」と言ってくれた。その言葉はとてもあたたかくて、電話口の相手の声は少し涙ぐんでいるように聞こえた。その言葉を聞いて、わたしは静かに嗚咽した。その言葉に、深く救われた。
その後も、いろんな友だちが全力でわたしをサポートしてくれた。
海外から帰国した翌朝、わたしの状況を聞くために速攻で会いにきてくれた友だちがいる。
会社からの帰りの電車の中でパニックを起こし、LINEで助けを求めたら、途中の駅まできてくれて、そこから雨に打たれながら歩いて一緒に家に帰ってくれた友だちがいた。泣いてるわたしの肩に手をまわしながら、ずっとわたしのとりとめもないグチャグチャな話を聞いてくれた。雨は冷たかったのに、こころはとてもあたたかかった。
自分もまだ幼児がいたり、仕事があったり、いろんな事情がある中で、日中・深夜を問わず、何時間も電話で話を聞いてくれた友だちが何人もいた。
パニック発作を起こしているとき、なにも言わずにわたしが落ち着くまで強く手を握り続けてくれた友だちがいた。
会社の同僚や上司も、わたしの状態を真剣に聞いてくれて、わたしにとって一番負担のない解決策を提示してくれた。出勤最後の日、「ここ数ヶ月、本当に大変だったと思います。陰ながら見てるしかできなかったけど。つむさんはひとりじゃないよ。会社のみんな、つむさんの味方だよ!って伝えたかったんです」と声をかけてくれた人がいた。
病院の人、子育てについて相談した専門家の人、いろんな "お仕事" の人たちに、やさしい言葉をかけてもらった。そのたびにわたしは嗚咽して、時には過去の話をしなければいけないことでフラッシュバックやパニック発作を起こしたりした。それでも、苦しくても、つらくても、やっぱりその優しさに「世界は優しいんだな」と感謝のこころが湧き上がってきた。
もちろん、わたしの家族もパートナーも、いろんな形で、その人たちにできる範囲で、わたしのことを支えてくれているし助けてくれている。正直、いっぱい迷惑もかけていると思うし、むりもさせていると思う。その考えに押しつぶされそうになって揺れそうになるこころを、またたくさんの友だちを含むさまざまな人たちが「それで大丈夫だよ。つむさんは今できる最善をしているよ。大丈夫、間違ってないよ」と何度もくりかえし背中を押してくれた。
このすべてが愛でないのであれば、愛ってなんなんだろうって思う。
今、わたしは暗くて深い闇の中にいる。くるしいし、怖いし、不安だし、つらいし、しんどい。
でも、これだけの優しさやぬくもり、愛を感じることができたのならば、この闇の中に堕ちてよかったとこころの底から思う。死にそうになるくらい、くるしいし、怖いし、不安だし、つらいし、しんどいけど。(2回目)
あなたに愛を与えてくれる人
恋愛だけがあなたに「愛」を与えてくれる対象じゃない。
彼氏やパートナーだけが「愛」をあなたに与えているわけじゃない。
「愛」ってそんな小さなものじゃない。
「愛」っていうのは、あなたのことを想ってくれる人のこころ。
それは家族だったり、友だちだったり、見ず知らずの人のふとした優しさや一言かもしれない。
「好きだよ」「愛してるよ」「結婚しよう」「一生、一緒にいよう」
それだけが愛の言葉なんかじゃない。
手を繋ぐこと、抱きしめてもらうこと、キスをすること、身体を重ねることだけが愛の行為じゃない。
遠くから相手のしあわせを願うこと。
相手のしあわせを祝福し、それを守ろうとすることも愛だ。
相手のことを大切に思うからこそ、相手を自分に自分に縛りつけようとするのではなく、相手に選択の自由を与えること。その選択の先に、自分が隣にいない未来があったとしても。
そんな想いだって、愛だ。とても、深い、愛だ。
自分のために仕事や家族との時間の合間をぬって、話をする時間を使ってくれること。
なにかあったらLINEや電話で何時間でも話を聞いてくれること。
無理なときは5分だけでも、LINE1通であっても、あなたの安否を思いやる言葉をかけてくれること。
それだって、立派な愛の形だ。
自分にとっての「愛」の定義をもっと広げて自分の人生を見ることができたなら。あなたはこんなにも愛されているということに、ふと気がつくかもしれない。求めていた「愛」は、まるで童話の青い鳥のように、既にあなたの手中にあったのだということに気づくのかもしれない。
お金よりも社会的成功よりも大切なもの
「つむ。お金よりも、社会的に成功することよりも、なによりも大切で、なにものにも代えがたい宝物ってなにかわかるか?」
まだわたしが10代だった頃、バイト先の店長が仕事終わりに尋ねた。
「それはね。"友だち" と "家族" だよ。本当につらいとき、長い人生を生きる中ですべてを失ったように感じることもあると思う。でも、すべてを失ったとしても失われないもの。それが本物の "友だち" であって "家族" なんだよ」
わたしには、血の繋がったいわゆる "家族" が少ない。
だから必然的に、自分にとっての親友やパートナーは "家族" に限りなく近いポジションをとる。時と場合によっては、血の繋がった家族よりも、強い気持ちでつながった友だちの方が家族と呼べるかもしれない。
わたしにはいろんな場所に "お母さん" や "お父さん"、"お兄ちゃん" や "お姉ちゃん"、"弟" や "妹" がいる。その絆は、愛は、どれだけの時や距離があろうと、ちゃんとつながるものなのだということを、今回の自分に降りかかったいろんな事象が教えてくれた。
そんな "家族" と呼べるほどの出会いは、人生においては本当に貴重だ。
そして、ありがたいことに、わたしにはそう呼べる人たちが複数人いる。
本当に恵まれている。しあわせ者だと思う。うつだろうが、なんだろうが。
でも、「そんな関係性を持った相手なんていない」という人もきっといるんじゃないかと思う。
自分の "家族" の作り方
まるで "家族" のような、自分の身になにかあったとき、口先だけではなく本当に助けの手を差し伸べてくれる友情。それは、どうやって作っていくんだろう。わたしは、どうやってこんな友情を築いてきたんだろう。
そんなことを、数日前から考えていた。
少し話は変わるが、わたしは『暁のヨナ』という漫画がとても好きだ。最近も、一巻から最新刊まで読み返していた。
最新刊に近づいていくほどに、わかることがある。
本当の絆とは、"家族" のような友情とは、自分が相手に対して純粋な慈悲のこころと愛をもって接することからはじまるのだと。そして、その絆こそが、人生の窮地において自分自身を救ってくれるかけがえのないものなのだと。
自分でいうのもなんだが、わたしは情が深い。
小さいとき、いじめられていたことも関係しているのかもしれない。
何年も、友だちができなかった。
だから、高校に入って出会った友だちのことをこころの底から大切にしていた。
何時間も、話を聞いた。夜の河川敷で。授業中の裏階段で。テスト前夜に電話で。
電話口で涙声を聞いたら、詳細を聞く前にすぐにその場所に飛んでいった。「家にいるのがつらい」と言われたら、「うちの家に来い」と即答して家にかくまった。
シャツの袖が血に濡れているのを見たら、授業をばっくれて非常階段でカッターをとりあげ、なにがあったのかを聞き寄り添った。
見返りを求めた行為ではなかった。その友たちの存在に、わたし自身が救われていた。たくさん助けてもらっていた。だから、わたしもみんながつらいときは救いたかったし、助けてあげたかった。ただただ、大切だった。
そのわたしの情の深さは、大人になってからも「この人は!」という人に対しては強く発揮された。仕事よりも倒れていて震えている大切な人に寄り添うことを選んだこともある。それは社会的に見たら間違いなのかもしれない。でも、それをしないことは、自分自身の在り方に背く行為だと感じていたのだ(ちなみに会社はその後、その行動をとても評価してくれた。いい会社に入ったなって、そこでも感謝の気持ちが湧き上がった)
その見返りを求めない強い想いこそが「愛」と呼ばれるものなのだと、最近になって知った。
ただ相手のことが大切だから。自然と足が動く。自然と涙を拭きたくなる。抱きしめてあげたくなるし、支えてあげたいと思うし、助けられることなら助けたいと思う。
もちろん、その想いを注いだ相手の全員が同じだけの愛を返してくれるとは限らない。高校の頃、仲の良かった9人のうち、今も連絡をとっているのは3人だ。そのうちの1人は、今年に入って数年ぶりに再会し、そこから連絡をとるようになった。人生の節目節目で、「大切な人」のポジションは少しずつ入れ替わっていく。でも、さらに年月が経つと、またそのポジションにひょっこり帰ってきている「大切な人」がいたりする。
もちろん、わたしのこの情の深い性格が自分に損となってかえってきたこともある。深く、本当に深く傷つけられたり、裏切られたりしたこともある。だから、大人になってからは、自分の情を、こころを、時間を、エネルギーを、分け与える相手は慎重に選ぶようになった。
それでも、わたしの本質の部分は10代の頃からなにも変わっていないんだなと、最近もつくづくと思う。
漫画、『暁のヨナ』の主人公も同じタイプだ。
見返りを求めず、困っている人がいたら助ける。そこに理由や理屈なんていらない。その結果、痛い目にあったことも裏切られたこともある。それでも、まわりまわってそこで紡がれていった愛という名の想いは、 "恩返し" というかたちで主人公や彼女の仲間の元へとかえっていった。何度も、何度でも。
優しすぎるやつはバカを見るというけれど
ここから先、今わたしの "家族" ポジションに残っていく人がどれくらいいるのかはわからない。きっと、入れ替わったり、数が減ったりすることだってあるだろう。
それでも、やっぱり、時の流れに淘汰されることなく残っていく「大切」もあるのだと、今のわたしは思う。
最近、偶然YouTubeで見つけてひどく共感したアーティストがいた。
この時代に、優しすぎるやつや正直すぎるやつはバカを見るっていう人もいるかもしれない。
でも、それでも。
わたしは、今、自分がそういう "バカ" でよかったなって思う。
だからこそ、自分の窮地のときに助けてくれて、愛を与えてくれる人がこれだけいるのだということを知れたのだから。
そして、それだけのいろんなかたちの「愛」に囲まれて生きているということを実感することができたのなら。世の恋に悩む乙女たちは、自然と「愛されているという安心感」を得ることができて、恋愛が人生の一番重要なものではなくて、数ある「愛」を与えてくれるポジションのひとつにすぎないということに気づくかもしれない。
そうなったとき、はじめて世の乙女たちは、本当の意味での「自尊心や自己肯定感があり、自立している魅力的な女性」になるんじゃないだろうか。
無理をせず、そうなろうと歯を食いしばって努力することなく、ただ、自然に。
そんなことを、思っているのです。
サポートしていただいた方のことは忘れません