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「人生の脚本を書き換える」フワッと、ふらっと、ナラティブセラピー

 私達が、素朴な感覚で現実(リアリティ)だと思っているものは、映画「マトリックス」のような仮想現実世界、バーチャルリアリティ(Virtual Reality;VR)ではないかという点について考察し、VRであるなら、人生の脚本をよりよいストーリーに書き換えることができるのでは?という点について今回はフワッと、ふらっと、みていきたいと思います。


1. 現象学

 現象学とはフッサール(1859-1938)が提唱したもので、フワッとした感じの理解では以下のような内容のものです。

 まず、現象学では私達が現実だと思っているこの世界は夢の世界かもしれない、あるいは、現代哲学の思考実験でよく言われるような「水槽の脳」のような世界かもしれない。

 つまりただ、主観の中に、「今見ている世界はリアルである。」というように、現実だと信じて疑わない確信があるだけで、主観的確信は、客観的真理とは異なる、このように考えます。

(なので、現象学的な観点からは、客観的真理を探究するというよりも、確信の理由を探るのが哲学の使命であると考えたりする場合もあります)

2. エポケー

 確信は、意識による思い込み(「原信憑」といいます)なわけですが、現象学ではまず、この現信憑が見方を誤まらせる原因となるので、正しい見方をしたい場合には、排除しなければならない(これを「エポケー」といいます)といいます。

 そうすることによって、思い込みを剥ぎ取った意識(「純粋意識」といいます)について語ることができるわけですが、この純粋意識には「指向性」があるといいます。

 指向性とは意識が「これに意識を向けよう」とする性質、つまり、事物に対し、「この事物を知覚しよう。これは知覚しなくていいや」と選択する性質のことをいいます。

 なので、全く興味のないことはあたかも存在しないかのように知覚されないわけですね。

 この文章についても、こういうことについて全く興味がなければ、おそらくここまで読み進めていないものと思いますので、読まれずにすでにほっぽり投げられていることでしょう。(^^;

 ということはそのような人にとってはまあこの文章は存在しないのも同様ということになります。

3. 意識の構成

 1520年にマゼラン一行が、大型帆船4隻で航海し、南米最南端のフェゴ島に到着したとき、島民達には、島の湾内に停泊された、マゼラン達の大型帆船4隻が全く見えなかったそうです。

 そんなものは存在しないかのように見えて、大型帆船4隻が停泊されているにもかかわらず、湾を見渡すとそれらがないかのように湾の向こうの水平線だけが見えたようです。

 なので、島民達はどうやってマゼラン一行が島にやってきたのか不思議でならなかったそうです。島民達はカヌーしかしらず、彼らの意識には大型帆船というものが全く存在せず、イメージすらもできなかったため、「この事物を知覚しよう。」とする指向性が働かず、彼らの意識が選択し、知覚してしまったのは、いつも見慣れた「水平線」のほうだったということです。

 逆に見慣れた他人の顔や風景についてはちらっと見ただけで、意識が瞬時に情報を(というよりは過去の記憶を)総合的に統一して知覚します。この場合は、現実を見ているというよりも記憶を再生しているだけといえるかもしれません。だから実は何も見ていない可能性もあります。

(ゆえに、思い込みもたぶんに含まれるため、よく見ると「あれ、友人ではなくて他人だった。」という勘違いをすることもあるのでしょう。)

 このように人間の認識経験とは、言い換えると「意識の構成」といえるわけです。

 つまり、私たちがとらえている事物(リアリティと思い込んでいるもの)は、事物(リアリティ)そのものではなくて、意識によって構成されたもの(バーチャルリアリティのようなもの:現象学では「超越」といったりもします。)だということになります。

 そういうことで純粋な客観というものはありえず、あるのは、ただ意識が構成するものだけということになります。

4. 間主観性

 なお、このようなバーチャルリアリティを、なぜリアルに感じるのかというと、他人の認識と自身の認識が共通する場合があるからです。

 他人の認識と自身の認識が共通すれば、「自身の認識が妥当である。」と確信でき、この確信があるからこそ現実感を感じることになるのでしょう。

 事物の存在は、二人以上の認識の突合せがされて、それにより客観的な存在であると確信されることになります。

(このような考えを「間主観性」といいます)

 すなわち、客観とは、集団的な共通認識による確信から生まれてくるものだということになります。

「客観」も「確信」に過ぎないことを「超越」というわけですが、私達は、このようにリアルにじかに接しているわけではなく、リアルを超越した場所(バーチャルリアリティ)にいるといえるのかもしれません。

5. 社会構成主義

 社会構成主義は、「X=社会的構成物」との主張をすれば、「Xについての社会構成主義」となるとする考え方です。

 もうすこし日常用語に近い言い回しに変えると、

「Xの存在は必然ではない。Xを存在せしめたり、あるいは今のような形にしたのは、社会的なできごと、力、歴史であって、このような社会的要素のからみあいが別のプロセスを経ていれば、(現象学的に言えば、集団的な共通認識による確信の形成が別のプロセスを経ていれば)Xは存在しなかったか、存在していたとしても別の形になっていたことであろう。」

ということになります。

 つまりXは必然でも絶対的存在でもなく、これもまたバーチャルリアリティのようなものといえることでしょう。

 例えば、パソコンのキーボード。使われているのは、JISキーボードと呼ばれるものがほとんどだと思うのですが、私はワープロ専用機を使っていたときは、富士通の親指シフトキーボードというものを使っていました。

 個人的には、親指シフトのほうが断然使いやすかったと思うのですが、これは残念ながら様々な社会的な事情から絶滅してしまいました。(;;)

 パソコンのキーボードという言葉を先ほどの「 」の文章のXに代入すると、以下のようになります。

「パソコンのキーボードの存在は必然ではない。パソコンのキーボードを存在せしめたり、あるいは今のような形にしたのは、社会的なできごと、力、歴史であって、このような社会的要素のからみあいが別のプロセスを経ていれば、パソコンのキーボードは存在しなかったか、存在していたとしても別の形(例えば親指シフトキーボード)になっていたことであろう。」

これを、「パソコンのキーボードについての社会構成主義」というわけです。

 科学知識もそうです。

「科学知識の存在は必然ではない。科学知識を存在せしめたり、あるいは今のような形にしたのは、社会的なできごと、力、歴史であって、このような社会的要素のからみあいが別のプロセスを経ていれば、科学知識は存在しなかったか、存在していたとしても別の形になっていたことであろう。」

ですから・・。

 上記の科学知識のところに「地動説」を入れてみると、

「地動説の存在は必然ではない。地動説を存在せしめたり、あるいは今のような形にしたのは、社会的なできごと、力、歴史であって、このような社会的要素のからみあいが別のプロセスを経ていれば、地動説は存在しなかったか、存在していたとしても別の形になっていたことであろう。」

となるのですが、これはそのとおりのようです。

(上記、講談社webサイト「いま敢えて問います。天動説と地動説、どちらが正しいと思いますか?」松浦 壮 慶應義塾大学教授 著 より以下引用)

「このように、何を止まっていると考えるかは人間の都合なので、それによって物理法則は変わりません。であれば、太陽と地球のどちらが止まっていると考えても結論が変わるはずはありません。

この認識に到達した今、天動説と地動説はどちらも正しいのです。私たちは間違っているから天動説を捨てるのではなく、正しいけれど複雑なので通常は使わない。これが21世紀を生きる我々の理解です。」

(引用終わり)

 つまり「天動説」でも別に説明はつくけれども、「地動説」の説明のほうがシンプルであるので、地動説が支持されたということのようです。

 科学知識についても、集団的な共通認識による確信の内容が変われば、あるいは社会的要素のからみあいの形が変われば、変わるものですから、やはり必然でも絶対でもないということになろうかと思います・・。

 今の世界の形についても同様だと思います。

「今の世界の形の存在は必然ではない。今の世界の形を存在せしめたり、あるいは今のような形にしたのは、社会的なできごと、力、歴史であって、このような社会的要素のからみあい(集団的な共通認識による確信の形成)が別のプロセスを経ていれば、今の世界の形は存在しなかったか、存在していたとしても別の形になっていたことであろう。」

 今の世界の形そのものも、絶対的なもの、必然的なものではなく、集団的な共通認識による確信の形成による仮想、つまりバーチャルリアリティであるということになろうかと思います。

 個人的であろうが、集団的であろうが、確信の内容が今とは別の確信に変われば、世界の形そのものが変わります。

6. ナラティブセラピー


 ナラティブセラピーは、人の人生を「物語」として捉え、その物語を書き換え、再構築することを通じて問題を解決するアプローチです。

 私達が見ている「現実(リアリティ)」は、「真実」で「客観的」なものであると通常は考えられているわけですが、ここまでみてきた各種理論と同様に、ナラティブセラピーでは、「現実」を見る際に、そのような「真実」性・「客観」性のフィルターを一旦外し、「現実(リアリティ)」とは、様々な、相互作用の中で紡ぎだされる可変的な「ナラティブ(語り、物語)」であるとします。
 
 ナラティブは、このように、固定的なものではなく可変的なものであるので、編集可能です。

 アドラー心理学の仮想論でも、人は現実そのものではなく、それぞれ自分の経験や信念に基づいて現実を解釈し、その解釈に従って行動すると考えましたが、似たところがあると思います。

 そこで、ナラティブセラピーでは、自分自身の人生を理解するために主要なものとしていたナラティブ(以下、これを「ドミナントストーリー」という)が、今後の人生にも悪影響を与えるような問題がしみこんだものであるなら、別のより望ましいナラティブ(以下、これを「オルタナティブストーリー」という)に編集して書き換えることをセラピーの手段とします。

7. 外在化

 具体的には「外在化」という技法を主に用いて編集・書き換えを行います。

 例えば、「私は内気(うちき)で外向的でないので人脈があまりできない。」という悩みがあったとします。

 このように「私=内気」と思い込んでしまうと(「私=内気」をドミナントストーリーとすると)、(内気なことを悩みとしているのであれば)その内気という敵に戦いを挑むこととなります。

 しかし、「私=内気」であるから、敵対しているのは自分自身ということにもなってしまいます。

 そこで、このようなドミナントストーリーを書き換え、よりよいオルタナティブストーリーとするために、「私≠内気」とし、内気は私とイコールではなく、私の外部にあって、私を妨害しているものと表現していくことになります。

 これを「外在化」といいます。

 つまり、「私は内気で外向的でないので人脈があまりできない。」というストーリーから、「(私の外にある)「内気」が、私の人脈の広がりを妨害している。」・「「内気」が私を消極的にさせる。」というストーリーに書き換えるわけです。

 こうすることを続けていくことによって、「私は内気である」ことが、宿命的であるという固定観念から解放されていくことになります。

 このようなストーリーの書き換えは、一国の歴史観の変化に似ているかもしれません。

 歴史観が変わると同じ「歴史的資料」であっても見方が変わり、今まで見向きもされなかった資料が急に脚光を浴びるというようなことがあります。

 ナラティブセラピーの場合も同様で、「私=内気」という「私観」を「私≠内気」に変えることによって、

「私は本質的には内気ではなかった。そういえば、親しい友達との間ではワイワイと楽しく時間を過ごすことができた。」

等の見過ごしていた過去の出来事(見向きもされなかった歴史的資料に該当する)に対して新たな見方を与えることにもなります。

 これを「ユニークな結果」とナラティブセラピーでは呼んでいますが、これにより自分の潜在的な可能性に目覚め、新たな物語を紡ぎだし、そして立ち直っていくことが可能となります。

 この世界は、ここまで見てきたように、常識的に思われているような固定的な不変の世界ではありません。

 この世界の幻想性を認識し、「現実」を見る際に、「真実」性・「客観」性のフィルターを一旦外すことによって、問題のあるドミナントストーリーを書き換え、新たな物語である、オルタナティブストーリーを紡ぎだしていくことが可能となるわけです。

参考文献)


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