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道との対話で、散歩はもっと楽しくなる

道、路、径、軌、倫、理・・・。「みち」という漢字はいろいろあって、それぞれに意味がある。その違いについて考えてみたいと思います。

みちを漢字で書くと

 「道」と書くのがもっとも一般的でしょう。「路」という字もあり、京の都を南北に貫く朱雀大路のように、広くて立派な道を指すことが多いようです。ですから道と路で、道路とは大小いろいろな道のことを指すのも納得です。

 これよりも細くて短いみちには「径」という字を書くことがあります。小径と書くと、ヒューマンスケールのみちの雰囲気が出てきますね。横丁にも通じるイメージです。

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 「軌」という字もみちと読むことがあります。軌道やレールどおりに進む道、わだちの意味になり、普通であれば脱線することはないのだけれども、そうでなくなった場合に「みちをはずす」といった表現にもつながります。それが人のみちの場合には「倫」と書くことで、みちをはずす意味も鮮明になります。
 論理や物理の「理」という字は道筋や理屈を表しています。

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 このように、みちを表す漢字はいろいろあり、音は同じでも少しずつ意味や語感が異なります。

 そういう場合に私たちはあえて含みを持たせて、ひらがなで「みち」と表記することがあります。似たような例では、「まち」という漢字も、町、街とがあって、表記の仕方で受ける印象が変わってきます。みちもまちも私たちの生活に密接に関わり、いろいろな人が利用しています。それだけ多義牲に富んでいるということの表れではないかと思います。

失われたみちの面白味

 道の成り立ちが、人の往来や物資の運搬のため、あるいは場所に行くために出来ていったことは容易に想像できます。ほかにも、定期的に市が開かれたり、大人たちがの井戸端会議をしたり、子供たちが走り回っていたりと、みちは沿道で暮らす人々の生活の場でもありました。

 また、祭礼の日には往来を通行止めにして神輿が練り歩くといった、道はお祭りの場所としても使われるなど、私たちはみちをいろいろな目的で使ってきたといえそうです。

 ところが戦後の高度経済成長によって自動車が急増すると、道の整備が追いつかず交通渋滞や交通事故が社会問題化します。道の使い方も自動車優先が当たり前の状況になっていきます。道が本来持っていた様々な機能のうち、交通の部分だけが純化してしまったとも言えるのです。

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 モノが一つの機能に特化してそれ以外の機能が失われてしていくと、たいがい面白くないものになることが多いようです。お酒もそうですね。アルコールの度数が高ければよいというものではありません。何事も一つの機能を追い求めすぎると、味わいがなくなってしまうのではないでしょうか。

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 このことは、みちにも当てはまります。高速道路は交通機能に極めて特化した道といえるでしょう。自動車本来の走るという性能を最大限に発揮させるために作られた道ですから、人が自由に歩くことは許されません。自動車であっても緊急時以外に停まることすら認められず、停まる場所はサービスエリアという休息専用の場所が用意されています。こうしてみると、高速道路がいかに特殊な道であるかがわかるかと思います。

 道は古来より、移動や交流の機能を果たしながら、沿道の人々の生活の場であり祝祭空間でもあった訳で、現代の道は自動車を優先するあまり、ひどくつまらないものになってしまった気がします。

辺(へり)が道に含蓄を授ける

 それでは、歩く道の魅力とはどのようなものなのでしょうか。

 景観工学の第一人者である中村良夫先生は著作「風景学入門(中公新書650)」で、歩く道の風景に触れています。

歩くことに関係した風景といえば、野道の魅力ということがある。野道の素朴な含蓄の深さがどこから来るのかといえば、それは一つには、道が地形の起伏と人の歩く「用」とに素直にしたがっていることにあるけれども、それに含みを持たせるのはむしろ道の両わきの空間、「道の辺」にあるのである。…(中略)…道の妙味は道自体よりもその「辺(縁)」にある。辺が道に含蓄を授ける。

 私はこの「道の辺」を沿道の風景と読み換えても差し支えないのかなと考えています。沿道の風景がない道を想像してみましょう。

 例えば、埋め立てしたばかりの土地にダンプカーが通るような道が一本通っている道です。この道を歩くのが面白いかどうか以前に、歩きたいと思う人はいないでしょう。こうした道は通行という「用」に特化した道、すなわち通路です。この語感だけでも、何とも味気ない道が思い浮かぶのではないでしょうか。

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 そうではなくて、道の両側に樹が植えられていて、道に面した木々は新緑が冴えわたり、田畑ではいよいよ農作業も始まるのかなといった人々の暮らしぶりも垣間見える。こうした近景に加えて、遠くの峰々にはまだ雪が残っているといった遠景の風景があって、沿道の風景に味わいが生まれてくるのだと思います。

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 その意味は、歩く道から醸し出される面白さや味わいといったものは、道の形状に由来する魅力もさることながら、道の両側にある「沿道」という空間があってこそ面白味が発揮されるということを仰っています。道の味わいや道を歩く心地よさといったものは、沿道に拠るところが大きいといえそうです。

道に漂うオーラを感じながら歩いてみる

 山路来て何やらゆかしすみれ草。野ざらし紀行に収められたこの句は、芭蕉が41歳の時京都から大津に向かう途中の山道での出来事を詠んだものです。鬱蒼とした山道を歩いている途中、不意に道の脇に目をやると、鮮やかな紫色が目に飛び込んできた。可憐な菫の花が咲いていたことに気づき、小さな驚きとともに心を動かされた。

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 道を歩いていると、様々な景色に出会い、思いもしない発見があります。
 しかも道の景色は少しずつ変化していきます。そのスピードは速くもなく遅くもない。目に入って来る風景はもちろん、沿道から聞こえる音や木々の匂い、そよぐ風や路面の感触、場合によっては沿道の人々のしぐさや顔の表情まで。広い意味での風色を五感で感じとるには、歩く速さは丁度良いスピードと言えます。

 道と対話(コミュニケーション)する面白さを実感できれば、毎日の散歩はいっそう楽しくなることでしょう。

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