人の役に立つ仕事をしたい訳ではなかった
私は幼稚園~小学5年生まで絵描きになりたかったし
小学6年生~中学2年生まではエッセイストや詩人になりたかった。
私は絵や文章や詩を書くことが好きだった。
だから単純にその職業に憧れた。
幼稚園や学校では、将来の夢を尋ねられ、何らかに書くことが多かった。
クラスメートの夢と共に私の夢は言語化され
人目に晒された。
だが、さすがに中学三年生になった時、エッセイストや詩人になりたいなんて言ったら
夢見がち過ぎると思っていた。
エッセイストや詩人は狭き門で
努力や技術云々の問題ではなく
才能やセンスが問われる職業である。
まして、それで生活できるほどお金を稼ぐなんて
夢のまた夢であることくらい分かっていた。
ウケを狙うタイプの面白い男子は、夢のような夢を書いたりもしたが
リアリストな女子達は、中学三年生の卒業文集で
現実的な夢を書いて提出するようになった。
私は福祉職になりたいと書いた。
ヘルパーになり、各ご家庭に行って、料理や買い物や洗濯や掃除を手伝いたかった。
祖父母と同居していた私は
演歌や時代劇等高齢者の趣味を自然と好んだし
関わることに抵抗がなかった。
女の子は保育士や幼稚園の先生が人気があったが
私は子どもが苦手だった。
どう関わっていいのか分からなかった。
子どもより、高齢者と関わる仕事の方が向いていると私は思っていた。
私の父親は小学校の先生で
母親は幼稚園の先生だったが
私は両親から、学校の先生や幼稚園の先生になるようにすすめられたことはないし
私自身なりたいとは思わなかった。
子どもが苦手だからである。
姉はやがて小学校教員免許と幼稚園の先生や保育士の資格を取得し
母と同じ、幼稚園の先生の仕事に就いた。
私とは異なり、姉は両親と同じ資格を取得し
同じ職業に就いたのだから血筋を感じた。
姉は紛れもなく、両親の子どもだと思った。
偉いとも思った。
私は両親と同じ仕事をしたかったわけではないが
自然と両親と同じ仕事を選ぶようになった姉を
どこか羨ましく感じていた。
自分を異端児のように感じていたのだ。
私が初めて父親に
「将来は福祉の道に進みたい。」
と伝えた時に、父親はこんな風に尋ねた。
「どうして福祉職なんだ?」
だから、私は答えた。
「福祉職なら、人の役に立てるじゃん。」
私はどこかで福祉職をこんな風に考えていたのだろう。
福祉職を選べば、立派。
福祉職を選べば、人から褒められる。
福祉職を選べば、普通のまっとうな職業。
福祉職を選べば、優しい子だと思われる。
福祉職を選べば、家族が喜ぶ。
私は福祉職を美化していた。
看護師は血が苦手だからなれないが、福祉職なら私の学力でもなれるし、食いっぱぐれがないとも思っていた。
福祉学科の大学はたくさんあるし、進学も就職率もいい。
だけど父親は、そんな私を見抜いたのか、こんなことを言った。
「ともか………、この世の中に、人の役に立たない仕事はないんだよ。
みんな必要な仕事だから、仕事として成り立っているんだ。」
無難な福祉職を選べば、親は安心したり、褒めてくれると思っていた。
だから私は父親の言葉が意外であり
分かるようで、分からなかった。
「いや、そりゃ人の役に立つ仕事はたくさんあるだろうけど
福祉職は分かりやすく、人の役に立てるじゃん。」
私はそんな風に返しつつも
父親の少し困ったような笑みとその言葉が忘れられなかった。
高校二年生までは、私は福祉職を目指すべく、福祉学科のある大学を志望校として
模試に書いていた。
だが、親友が「私は心理学を学びたい。」と言った時に
私の心は大きく揺れた。
福祉職よりカウンセラー…心理職はマイナーであり
私はカウンセラーという職業の選択肢を考えたこともなかった。
カウンセラー、か………。
私は高齢者福祉施設に何度かボランティアに行ったが
少し引っ掛かりを感じていた。
認知症の高齢者と上手く関われなかったり
施設職員がつっけんどんだったことが
胸の奥底に引っ掛かっていた。
【私は福祉職に本当になりたいのだろうか?】
一度浮かんだ疑問は、何日も何日も私の中で消えず
調べれば調べるほど
大学で心理学を学ぶのは楽しそうだった。
ウキウキした。
だが、心理職は狭き門だ。
学力もかなり求められる。
福祉学科よりも心理学科の方が偏差値も高く
もし目指すのならば、より受験勉強に力を入れなきゃいけない。
今一番大学で勉強したいのは、心理学。
でも、福祉職の夢も捨てきれない。
私は揺れた。
悩みに悩んだ。
そんな悩みを私は家庭教師の先生に伝えた。
先生は、言った。
「ともかちゃん、仕事はね、勉強したからって、なりたい仕事にみんな就けるわけではないのよ。それならば、今の自分の気持ちに正直になった方がいいわ。
今一番興味があるのは、心理学……なんでしょ?」
私は先生の言葉で心の靄がパァーッと晴れた。
いいんだ。
なれるなれないではなく
心理学科を目指してもいいんだ。
私は多分両親や福祉職のイメージで
大学卒業後に資格を取得でき、職業が決まる大学しか
進路選択に入れていなかった。
仕事や資格に繋がらない道は許されないようなイメージがあった。
だから、【今学びたい勉強を学んだ方がいい。】という先生の言葉は
目から鱗であると同時に
私が今一番言ってほしい言葉でもあったのだ。
その後、私は大学を調べて
私の本命大学は、臨床心理学科の人でも
社会福祉士の講義を履修できることが分かった。
なんだ。一石二鳥じゃん。
迷うまでもないじゃん。
臨床心理学科に入学して、心理学と福祉の勉強をしてみて
四年間の間に自分が進みたい道はどちらかを
見極めればいい。
無事本命大学に受かった私は未来が明るくて前向きになれた。
臨床心理学科の学生は、選抜試験に合格しないと
社会福祉士の講義を履修できないと知るのは大学に入ってからで
選抜試験の合格率は30%に満たず
私は不合格であった。
つまり、社会福祉士の講義履修資格は得られなかったのだ。
大学の講義は楽しくて楽しくて
やはり心理学という学問は素晴らしいし
私はカウンセラー等心理職を目指したいと思っていたが
そんな私や他の学生に教授はピシャリと言った。
「臨床心理学を専攻した人は大きく分けると三種類。
他者を救いたい人、自分を救いたい人、心理学に純粋に興味がある人、です。
誰かを救うことで自分が救われていると思う人に告げます。
心理学も心理職もそんなに甘くない。
そういう人は心理職に就くんじゃない!」
教室は静まりかえった。
そして、私含め何人かが俯いた。
臨床心理学を学ぶ人は、訳ありの人が多かった。
自身もしくは身内に、何らかの問題を抱えている人達がたくさんいた。
初めは心理職を目指して入学したはずの数百名は
一人、また一人……と、脱落していった。
心理職は向いていないと、諦めたのである。
心理職に就くためには大学院に進学し、臨床心理士の資格を取得しなければいけない。
大学院試験は英語の論文試験であり、高校までの英語は通用しない。
例えばemotionは、通常は感情と訳すが、心理学的には情動と訳さないと×である。
英語で覚えなければいけない心理学用語は多々あり
またキレイに訳したり、要約するのは並大抵ではなかった。
大学院に進学し、臨床心理士を取得する場合
個人研究をしたり、学会で発表(もちろん英語)もある。
個人研究は闇雲にやればいいわけではなく、参考文献を片っ端から読まなければいけないし
仮定や考察の根拠もキチンとした上での研究だし
統計学という、理系の力も試された。
大学院は二年間。
学費は年間100万円以上が通常であるが
臨床心理士は国家資格ではないし、心理職は少ない為
院卒でも正職員にはまず就けない。
求人がないのである。
教授は狭き狭き門なので、教授志望の場合は、更に厳しい道が待っている。
カウンセリングは、傾聴の力が求められた。
カウンセリングにおいて、アドバイスは禁止である。
相手が話しやすいような雰囲気作りや聞き方が大切であり
相手がいくら沈黙しても、こちらはジッと待つという根気も必要とされた。
相手に共感はしても、同調はしてはいけず
冷静沈着に相手の呼吸や言葉を待つのがカウンセリングだ。
私達学生は一年生からそういった専門的な勉強を通し
心理学の勉強は楽しいが、自分達は心理職に向いているかと言ったら向いていないと考えた。
また、心理学は楽しいが
いくら心理学を学んだところで、人の心は分からない
ということも、身をもって知った。
「大学四年間では、心理学を学んだところで、人の気持ちは分からないと分かるのが精一杯です。
もちろん、私だって分かりません。
いいですか?人の気持ちが一番分かるのは、心理屋じゃない。
宗教家です。」
学生から絶大な人気があり、有名な教授がそう言った時
私はある意味納得してしまった。
学生時代、臨床心理士とのカウンセリングに臨んだが
プロがこんなものか…
と、心底落胆した。
何人ものカウンセラーと関わったし
他の友達も関わったが
みんな同じだった。
プロのカウンセラーのレベルに
カウンセリングの持つ力に
私達学生は落胆もしたのだ。
私は大学三年生の冬、大学院志望を諦めた。
心理職としての素質もなく
英語力や論文、統計学の力も足りず
プロのカウンセラーを見ても、落胆しかないほど、レベルが低かった。
そして何より
大学院卒業した先に待っているのが非常勤という現実に
私は魅力を感じなかった。
臨床心理学科卒業後、大学院に進学し、心理職に就いた人はほんの一握りで
ほとんどの人が心理学に関係ない一般企業に就職し
私のように大学院志望だった人の一部は
福祉や保育の学校に入り直し
福祉職や保育職に就いた。
家庭教師の先生の言葉の重みを感じた。
あの時先生は、大学三年生、だった。
私は大学卒業後に福祉の専門学校に入ったが
ヘルパーにはならなかった。
私は大学、そして福祉の専門学校での体験や授業や実習で
障害者福祉分野に強く憧れたからだ。
【障害がある人の自活や自立を支え、手伝う仕事がある】
それを知ったのが、私が大学二年生の時だ。
私はそういった職業があることを知らなかったが
知った時に私の世界は大きく動いた。
【楽しそうで、やりがいがある仕事だな…】
私はそう思った。
思えば私がバイトを選ぶ基準も
人の役に立つ立たないではなかった。
家庭教師のバイトは
【勉強教えるのが好きだし、分からないところが分かる快感を、生徒さんにも味わってもらいたい】
試食販売のバイトは
【かわいい格好をするのが楽しそう。色々な新商品を一口サイズに用意してお客さんに配ると、お客さんは嬉しそうな顔をしてくれる。お客さんと触れ合ったり、笑顔を見たい。】
着ぐるみのバイトは
【かわいい格好をして、キャラクターになりきるのが楽しい。】
学会のお手伝いのバイトは
【学会の様子を知ることができる。学会面白そう。学会のお手伝いはなかなかできないし、せっかくならやってみたい。】
バイトだから、勤務日数や時間帯、時給ももちろん大切だったが
私がバイトを応募した理由は【楽しそうだから】だった。
………私は、人の役に立つ仕事がしたかったわけじゃない。
私は楽しそうな仕事がしたかったんだ。
自分の過去の体験で楽しいと思ったことに繋がる仕事や
仕事内容を見た時に楽しそうだと思った仕事を
私は選んでいると知った。
障害者福祉の仕事をしたいと思った時も
利用者の方とパン作りをしたり、下請け作業をすることが
私自身楽しかったからだ。
利用者の人と関わる時間が楽しくて、一緒にいたいと思ったからだ。
私は専門学校二年生の時に、第一志望だった、実習先の施設で内定をもらった。
正直な話をすれば、ボランティア先や他の実習先の施設でも
ありがたいことに採用の話はあった。
だけど私がそれらの話を受けないで、第一志望施設で働きたいと思ったのは
私が今まで行った施設の中で、実習が一番楽しかったから
に他ならない。
利用者も職員もみんな優しく、アットホームで
大らかで
なんでも屋のように様々な業務があるその仕事に
私は心から焦がれた。
【楽しそう】と心から思った。
福祉職として働いている間、たくさんの人に言われた。
「障害者って怖くない?」
「福祉職やってるなんて偉いね(優しいね、立派だね)。」
「仕事大変でしょう?」
「その仕事、よくやってるね。」
私はそのたひに言っていた。
「仕事、とっても楽しいよ!利用者はかわいいし、保護者や同僚は優しいんだよ。」
「福祉職はね、利用者の笑顔を増やす仕事なの!コメディアンみたいなものなんだ。
利用者が笑顔で過ごせるためには、私自身も楽しく笑顔で過ごせることが大切なの。職員も笑顔、利用者も笑顔、そうすると保護者も笑顔。みーんな笑顔。
施設内はね、笑顔で溢れている、楽園なの!」
「障害がある利用者の方は課題も多いけど、毎日毎日根気強く関わって、何かできることができるとね、めちゃくちゃ嬉しいの!
三ヵ月かかってね、利用者が私の名前呼べるようになったの!入院して退院してから施設利用した方が、リハビリ中に初めて走ったの!
私達職員は支援者だけど、目撃者でもある。その瞬間に立ち会えたことが嬉しくてたまらないの!」
「私は利用者がいるから、職員として仕事を頑張れるの。仕事で嫌なことがあっても、利用者はいつだって私を愛して求めてくれる。負けるもんか、応えてやる!って強く思う。
私が利用者に支えられてるんだよ。」
私は仕事を始めてから劇的に明るくなったと周りから言われたし、自分でも思う。
「福祉職のイメージが変わった。」
「ともかが今の仕事に誇りを持っているのが伝わる。」
「仕事、本当に好きなんだね。」
周りはよく、そんな風に言っていた。
「学生は気楽で、社会人は大変だ。」とよく言われていたが
私にとっては社会人の方が楽しかった。
学生時代、私に休みらしい休みはなかった。
小学時代、習い事は週4~5だったし
中学時代は部活がハードだった。
高校時代は予習復習や受験勉強に追われ
大学、専門時代は課題に追われ、サークルやバイトが入っていて
週1しっかりとした休日なんてなかった。
それに比べたら社会人は
土日が休みだし(週によっては土曜日仕事だが)
残業はあっても、持ち帰り仕事はないから
帰宅すれば自由が待っていた。
高校時代みたいに朝までテスト勉強したり、大学生時代みたいに徹夜でレポート作成しなくていい。
学生時代は友達や人間関係で揉めがちだったが
社会人になったらひたすらに利用者がかわいかった。
楽しく働いたら給料がもらえて
しかも年に三回ボーナスまでもらえた。
自分が頑張ったことや楽しいと思ったことでお金をもらえ
社会に貢献できていると思うと
嬉しくてたまらなかった。
仕事はパワハラや人手不足に関しては大変だったけど
協力し合える仲間の同僚がいた。
分かってくれる人はたくさんいた。
福祉職はなんでも屋だとつくづく思ったし
想定外の仕事もたくさんたくさんあったが
基本的には何もかもが楽しくて
楽しかった。
「私は障害者福祉施設で働くことは天職だと思ってる!この施設で働けて本当によかった!」
私はそう、胸を張って言っていた。
本心だった。
だから、就職してから11年働き続けることができたのだと思う。
まさか私も、11年も働くとは思っていなかった。
そして、倒産や体調不良以外で私が辞表を出すことになるとも
全く思わなかった。
私は施設に骨を埋める気だったから。
様々な事情で仕事を辞めるしか道はなくなり
私は呆然としてしまった。
転職なんて考えたことがなかった。
私は天職だと思っていたのだから。
無職になった2020年春
私は久しぶりに仕事探しをすることになった。
世の中にはたくさんの仕事が溢れていて
求人を見るたびに
新しい発見があった。
道を歩いたり、お店に行ったり、テレビを見ると
必ず誰かが働いていた。
働く姿を見掛けた。
私はかっこいいと思った。
父親がかつて言った言葉が身に染みた。
【人の役に立たない仕事はない】
本当にその通りだ。
私が無職として過ごしている今、まさに今この瞬間の生活を
誰かが働いて全力で支えている。
私は働いている人全てが羨ましかったし
働いている人全てがかっこよく感じたし
働いている人全てを敬う気持ちでいっぱいだった。
やりたいことを見つけた上での退職ではなく
むしろ、施設でやり残したことがある上での退職だった私は
なかなかに転職活動が難航した。
最初は単純に同業種に転職しようとしたが
障害者を見れば見るほど
私は前の職場を思い出した。
施設の作りや雰囲気をいちいち比較してしまった。
私は障害者福祉と前職への思い入れがあまりに強すぎた。
11年の経験年数や資格を活かしたいと思う自分と
思い入れが強すぎる故に、一旦この世界から離れるべきではないかと思う自分が常にいた。
私が今何をやりたいのか
私が今何の仕事をやりたいのか
周りに問われても、自分自身に問いかけても
明確な答えはでなかった。
「働くって、なんだろう?」
私は今年、何度考えたか分からない。
貯金があろうと、失業保険をもらえようと、実家暮らしであろうと
無職であることはただただいたたまれなくて
私は早く働きたかった。
社会の歯車になりたかった。
だけど、求人を見ても
なかなか「これだ!」と思う仕事に出会えなかった。
出会えても資格が足りなかったり、採用されなかったり
自分が避けていた職種で内定の話があったり
悩んだり
その先で断ったりと
なかなかに社会の歯車に私はなれなかった。
社会から取り残される一方だった。
私は今年、YouTuberの竹脇まりなさんと手越祐也くんを知った。
二人とも笑顔で明るくてポジティブで
ありのままの自分を愛していて
ビジョンが明確で
人に囲まれていて
私もこんな風に生きたいな…
と、しみじみ思った。
私は二人のファンで、二人が動画をアップするたびに見て
笑ったり力をもらったし
竹脇まりなさんの運動動画に至っては
毎日見ていた。
「何の職業に就きたいか、ではなく、未来の自分がどんな風に過ごしたいかを考え、そのためには何の仕事を選べばいいかを考える。」
「例えば二ヵ月後に死んでしまうとしたら、何をやりたいかを考える。そうすると、自分の大切なものや譲れないものが見えてくる。」
そんな風に竹脇まりなさんが言っていたのを見た時、私は理想の未来を想像した。
私の理想の未来。
恋人やパートナーと穏やかな生活をしつつ、やがて結婚したい。
誰かと一緒に笑って過ごせる仕事がしたい。
障害者福祉職にこだわらず、人と関われて楽しくもやりがいがある仕事がしたい。
家族や友達と仲良く過ごしたい。
健康的に過ごしたい。
朝早く起きて、夜は早めに眠れる生活がいい。
ほどよく体が動かせる仕事がいいし
休日に一人もしくは恋人と散歩ができたらなおよい。
仕事だけの人生は嫌だ。
仕事も趣味も大切にして、楽しく過ごしたい。
そう思った時
私にとって人生とは楽しむものであり
仕事とは楽しいことなのだとつくづく思った。
仕事を辞めてから半年以上が経ったが
私は自分にとっての【楽しい仕事】がまだ見つからないのだと思った。
だから転職活動がまだ終わらないのだと思った。
来年は丑年。
私の干支の年でもある。
年内に転職は難しいかもしれないが
来年こそは転職をしたい。
そして、私が思い描く未来に一歩近づきたいのだ。