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ノンデュアリティ⇨アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(シャンカラその1)?岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」

ノンデュアリティ⇨アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(=不二一元論・シャンカラその1)?岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」

前回の記事で、この世界が実在するという確信をなくせという話になったわけだ。

この点、シャンカラさんは、どういう理屈を言ったの?

まず、見るものと見られるものの結合は、無明・無知によるものと、二元論のサーンキヤ哲学は言ったわけじゃん。

うんうんそうだね。

でもさ、見るものと見られるものが結合する以前には、心は働いてないんだから、無明・無知により結合するっておかしくね?って思わない??

おかしいね。

だから、二元論は否定されるんだ。そして、無明・無知により結合するのはおかしいから、見るものと見られるものは、そもそも結合してないんだ、ということになる。常に解脱しているってことになるよね。

そうなりそうだね。

で、見るものと見られるものが結合してないんだったら、結合を解くための行為は必要ないよね?

うんうんそうだね。

となると、「わたしは見るもの=ブラフマンである」という知識だけが必要ってならない?

なるなる。

だから、ボクは、知識だけが必要で、実践は必要ないとシャンカラは考えると思っている。(この点、AIとは意見が一致しないが・・・。)

見るもの=プルシャと見られるもの=プラクリティの結合がないんだから・・・。

見るものという純粋意識のブラフマン。そして、さっき考察したように、見るもの=プルシャと、見られるもの=プラクリティという結合がない。(要するに、常に解脱している。)

見るものと見られるものの結合がない、と。

そして、見るもの=ブラフマンだけが実在で、ブラフマン=アートマン(真我)。となると、真我だけが実在で、現象世界は幻想で、プラクリティにあたるものは、存在するのかしないのかわからない夢のようなものということになるよね。

感覚・行為も、幻想のようなものになるんだよね?

そうだね。感覚・行為も幻想のようなものになる。この世界が実在するっていう確信がゆらがない?

ゆらぐねー。

すべてをデカルトよりも疑っていくと・・・。

これから、ブラフマンだけが実在するということを深堀りしていきたい。

ほほー。どう論証するんだろう??

デカルトは、我思う故に我ありといったよね。

うん。疑っている自分だけは存在するってことだよね?

デカルトは、方法的懐疑という手法をとった。要するにわかりやすく言えば、すべてを疑い、疑えないものだけが真実だから、徹底的に疑え、みたいな手法だ。だから、疑っている自分だけは存在するっていう結論になった。

そうだったね。

でもさー、思考すらもプログラムされたものだったら?

デカルトよりも疑っていくわけだね?

もはや、それを「見るもの」=ブラフマン=アートマン(真我)だけが、疑えないものとして残ると。

そうだね、それを見るものまでは、疑えないね。

更に考えると、死後にはどうなるか?まず、死後に無のようなものが残る。けれども、それを見るものの存在までは否定できない。見るもののいない無は、全く想定できないからだ。だから、見るもの=純粋意識=ブラフマン=アートマン(真我)の実在は肯定できると。

なるほど。

なんか最後は、ヤージュニャヴァルキヤを連想させたかな(笑)。

ヤージュニャヴァルキヤも、アートマン最強、不死を主張したもんなー。死後も無を見るもの=アートマンが残るなら、不死じゃんさー(笑)。

ではでは、次回の記事以降も、更に考えていく・・・。

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