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ハードボイルド書店員日記㊼

「メチャメチャ役に立つ本を見つけたんだけど」「どんな本?」「すげえ効率いいんだよ」

昼休みの休憩室。同僚の男性社員ふたりがアクリル板を挟んだ向かいの席でそんな会話をしていた。私はスマートフォンで「vs. ~知覚と快楽の螺旋~」を聴きながら文庫本を読んでいる。ドラマ「ガリレオ」のOP曲だ。なぜか捗る。実に面白い。

「効率?」「古今東西の名著の粗筋と重要なポイントだけをまとめた本なんだ。国内も海外も小説もビジネス書も含めて。本当は7000円ぐらいするんだけどバーゲンブックだから3000円ぐらい。あれは掘り出し物だね」「バーゲンブック? 古本ってこと?」「バカ違うよ。新品で売れ残った古いのを安く売ってるんだよ」「へえ」だいぶ言葉が足りない。説明する方もあまりわかっていないのだろう。

日本では新刊の書籍や雑誌は「再販売価格維持制度」に基づき、定価販売されている。つまり書店が勝手に値段を変えることはできない。だが販売されてから一定期間を経たものは、出版社が定価の拘束を外すことができる。これに伴い、小売店が自由に価格をつけた本が「バーゲンブック」だ。数年前、一階のスペースを借りてフェアを開催したことがある。手芸や料理などの実用書や旅のガイド本、時代小説のアンソロジーがよく売れた。

「とにかくさ、あの本さえ持ってれば難しくて分厚い原書を何冊も読まなくても美味しいところをピンポイントで学べるわけ。経済的にも効率いいだろ?」「うーん、たしかにそうだけど」「何だよ。何か問題ある?」「いや、何も知らないままでいるよりは、そういうのを読んで知識を得る方が有意義な気はする」「だろ? 情報は多ければ多いほど武器になるんだよ」再生を止め、耳からイヤーポッズを外した。そろそろ戻る時間だ。

「先輩、どう思います?」「何が?」「さっきの話。何となく聞いてましたよね」「ああ」「やっぱり書店員って商品知識が重要じゃないですか? 特に傑作として名高い本の内容は、ジャンル担当関係なくある程度知っておいた方がいいと思うんです」「まあ、そうだな」ほら見ろ、と勝ち誇るタイミングで私はおもむろに文庫本の栞を外す。333ページ。ある一文を読み上げる。

「お前達のやっていることは検索で、思索ではない」

え、とふたりが目を円くする。「何ですかそれ」「伊坂幸太郎『魔王』だ。正確にいうと後日談の『呼吸』の方だな」「読んでるんですか?」「3回目だ。おかげであちこちに線が引いてある。たとえばこんな箇所にも」

176ページに戻る。「パソコン上でだけ仕入れた情報を元に、『何も分かってねえな』と嘯いているのだろう」

次は180ページ。「錯綜する大量の情報のどれが正しくて、どれが誤っているのか、俺たちは選択できているのか?」

通読しているからこそ、これらのセリフが発せられた状況と併せて著者が言外に含めたメッセージを正しく把握できる。ストーリーを追わずに名言だけを切り取ってもセンテンスの意味しか頭に入らず、すぐに記憶の網から漏れ落ちる。咀嚼しないで飲み込んだ栄養価の高い野菜が健康増進に寄与しないまま排泄されるように。

本を閉じた。ふたりは顔を見合わせている。戸惑っているようにも笑いを堪えているようにも見える。「あの、つまりどういうことですか?」「俺たち、どうすれば」ため息をぐっと飲み込み、私はマスクの下で最高の笑顔を作った。「さっぱりわからない」

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