ハードボイルド書店員日記【211】
「すいません、この本はありますか?」
だいぶ肌寒くなった平日の昼下がり。語学書の品出しをしていると、年配の女性に声を掛けられた。白い正方形の紙片に「それでも選挙に行く理由 白水社」と記されている。紅白歌合戦の常連がカラオケでワンフレーズだけ歌ったような筆跡だ。
「ございます」
「え、あるんですか?」
縁なし眼鏡の奥の瞳がサイズを増した。調べずに断言したのが意外だったのか、置いていることを期待していなかったのか。あるのだ。理由はふたつ。ひとつめは私が総選挙の前に仕入れたから。ふたつめは書かない。
「お待たせ致しました」
「ありがとう。政治の棚?」
「ええ」
「ごめんなさいね、一応見たんだけど」
「一冊だけ差していたのでわかりにくかったかもしれませんね、すいません」
「売れてるの?」
「あ、いや」
言葉を濁した。
「どこの本屋さんにも置いてなかったの」
「ありがとうございます」
おそらく置いてなかった理由もふたつある。ひとつめは売り切れ。ふたつめは書かない。
レジに立つ時間だ。大股でカウンターへ戻る。交替すると同時に、他のふたつでロールが切れた。私が入ったところも小銭のランプが点滅している。さほど並んでいない。どうにかなるだろう。
「あら」
先ほどの老婦人だ。件の本と今村翔吾「戦国武将を推理する」(NHK出版新書)をカウンターの上へ置き、空いた手首を左手でほぐす。配偶者のリクエストだろうか。
「その方の『イクサガミ』という小説の新刊がもうすぐ出ます」
「え、そうなの? 嬉しい。あれ面白いのよね」
心のなかで頭を下げた。男性作家の書いた時代小説を好むのが男性だけとは限らない。
「発売したら私でも見つけられるかしら?」
「講談社文庫の棚と、あと新刊・話題書のコーナーにも展開するはずです。わかりにくかったら、気軽にお声掛けいただければ」
「わかりました」
「けっこう分厚いと思うので、良かったら店内に置いてあるカゴをご利用くださいませ」
「ありがとう。あなた親切ね」
「いえ」
たまたまだ。繁忙期の品出し中に在庫について訊かれて愛想よく振る舞える自信はない。反射的に塩対応をしてしまった書店員は、多かれ少なかれ後で自己嫌悪に襲われる。話し掛けられるのが嫌なのではなく、すべての原因は人手不足だ。残業代は出せない、定時で終わらせろ、でも品出しの時間は増やせないという無理ゲーがデフォルトなのだ。
お釣りを渡し、カバーを掛けてレジ袋へ入れる。
「選挙終わったけど、どうなるかしら」
「どうでしょう」
「娘がこの前『誰が総理になっても一緒』『黙って従うだけだし、選挙なんて行くだけ時間の無駄』って話してたのね」
100円の棒金を割りつつ頷いた。後ろには誰も並んでいない。
「絶対違うと思ったけど、とっさに反論が浮かばなくて」
「よろしければその本の109ページを」
こんなことが書かれている。
「……なるほどね」
「政治に限った話でもない気がします。我々の仕事でも、たとえば置きたくない本を一等地へ大量に積めと本部から命令されます。その版元とは取引してないし売れないからと良書の仕入れができないケースも」
「あるの?」
「口が滑りました」
「ふふ。でも好ましくない経営陣を従業員が排除するなんて」
「難しい。できなくはないかもしれないけど簡単ではないです。政治ではできる。そのためのシステムがすでに確立している。なのに、せっかくの権利を自ら放棄するというのは」
「そうよね。すごくわかりやすい。ありがとう」
今村さんの新刊が出たらまた来ます。そう言い残し、にこやかに去っていく背中を見送った。売れないと意味がない。場合によっては返品もやむなし。一方で、なかなか動かなくても棚に置いておきたい本が存在するのも事実だ。それらが売れないと嘆くよりもいかに届けるか、紹介していくかを考えていきたい。