ハードボイルド書店員日記【138】
「あの人、また来てますね」
某出版社のコミックス新刊が発売される金曜日。朝、売り場へ出ると梱包の山がバリケードを築いていた。特典を一緒にシュリンクしないといけない。複数あるものはまだしも、一種類しかないものは予め本に封入しておいてくれると助かる。あと初回入荷分の特典ぐらいは満数ほしい。矢面に立たされるのは書店員なのだ。
おかげで開店前は自分の棚をまったく見られなかった。大雨警報が発令されたとはいえ、この辺りへ本格的に降るのは夕方からだ。常連さんが悠々と週刊誌や件のコミックを買いに来ている。
お問い合わせカウンターが騒がしい。隣のレジで文庫担当の女性が眉を顰める。「あの人?」「○○さんです」「誰だっけ」「難しそうな本を探させて、ないと大騒ぎする」「思い出した。取引のない版元が出してる直仕入れの本を買いたいって言い張る」「それです。『お客様が出版社に直接お申込みを』と返したら『おまえらが代わりにやれ』って」「厄介だな」断片的に聞こえるフレーズから察するに、特定の何かを探しているわけではないらしい。雨粒を抓むような話をしている。
「いま店長はテナント会議?」「しばらく戻りません」正社員のいない時間帯が当たり前のように存在している。まずそれが問題なのだが、キャリア的に誰が対処すべきかは考えるまでもない。「ちょっと行ってくる」「お願いします」
「だからさ、そういうのじゃないんだよ」グレーのハンチングを被り、レンズの黒い眼鏡を掛けた小柄な老紳士が大きく脚を開いて椅子に座り、机に唾を飛ばしている。この年代でノーマスクは珍しい。「大丈夫?」「あ、先輩すいません」受けているのは昼までのシフトで働くパートの女性だ。真面目な人だけどこういう仕事は少々荷が重い。「よかったら代わるよ」「アンタ店長?」「いえ」「じゃあムリだ」「どういった本をお探しで」「いいから店長出せよ」「ただいま席を外しております」「困ったもんだな。本のことを何も知らない素人ばかり並べて書店とか名乗るなよ」満更的外れでもないのが歯痒い。
「力不足ですが私でよろしければ」「そうかい。じゃあ一応試してみるか。あまり高くなくて分厚くもなく、他の書店ではまず置いていない人生の勝ち組になれる本はないかって訊いたんだ」「ございます」表情が変わった。「ホントか」「少々お待ちくださいませ」
「こちらです」オレンジ色の本を手渡す。清水克衛「5%の人」だ。「何これ」「税込1650円で約160ページです」「見ればわかる。中身の話をしてるんだ」「洗脳された95%の大衆ではなく」「それもタイトルから推測できる。つまりどういう本なんだ? 具体的に5%の人ってのはどんな連中なんだよ」買って読め。前歯の裏まで出かかった。
大きく息を吸って吐く。「よし」「ん?」「失礼しました。36ページを開いていただけますか?」以下の内容が記されている。
「おれがおれがの”我”を捨てて、おかげおかげの”下”で生きる」
「魅力的で、まわりの意見に左右されない信念をもった人、自分のまわりを喜ばせるのが大好きな人が、5%の力を身につけた人だと思うのです」
無言で見入っている。「角川つばさ文庫」を立ち読みする子どもの眼差しだ。「……なるほど。一理あるな」たぶん面倒な輩ではない。本が好きなだけだ。「でもまだ不十分だな。5%の人になるにはどうすれば」「本当の上品を目指すことが肝要かと」「上品?」「58ページを」こんなことが書かれている。
「本当の上品とは心が”上”の人ですから、他人と比べたりしません」
「流行などに左右されず、他人の評価も気にしませんからすごく自由なんですね」
考え込んでいる。「他人と比べなかったら、いま自分がどういう状況なのかわからないだろ?」「おそらく95%が従っている価値観に囚われないという意味です。己が正しいと信じた道を一途に貫く。成功しようがしまいが」「そうやって誰の目も気にせず、なおかつ他人を喜ばせることに邁進できる人こそ勝ち組ってことか?」頭の回転が速い。「ええ」「いいな。読みたくなる本だ。初めて見たよ。なぜ置こうと?」「著者が私の大好きな本屋の店主さんなんです」
「今日はなかなか面白かった」「ありがとうございます」「またこういう本を見つけておいてくれ。アンタたちにしかできない大切な仕事だ」「精進します」「教えてくれた本屋にも行ってみるよ」「感想を聞かせてください」「おう。じゃあな」カバーを掛けた「5%の人」を大事そうに携え、ゆらゆらと帰っていった。
大量に売れるコミックよりもああいう人に喜んでもらえる1冊を置きたい。