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ハードボイルド書店員日記【205】

「レジではもっと落ち着いて。さっき、そう注意されました」
「誰に?」
「店長です。ちょっとミスが重なっちゃって」
「仕方ない。三連休が二週続いて忙しかったから。しかも人手不足でずっとカウンターを抜けられなかったし」
「そうなんです!! 有休取りたかったのを我慢して出勤したのに、ちょっと理不尽じゃないですか?」
「まあなあ」
「あと社員の人も、もう少しレジに入ってほしかったです」
「向こうは向こうで仕事が山積みだろうから」

「あの、私思うんですけど」
「ん?」
「普段よりもテンション上げないと、いい仕事ってできなくないですか? 特に接客業の場合は」
「そりゃそうだ」
「だったら落ち着けとか平常心でいろっておかしくないですか? そもそも『明るい笑顔で元気よく』っていうマニュアルの教えとも矛盾してる気がするんですけど」
「ちょっと待って。いまお客さん少ないな。一瞬レジを離れるぞ」

「これを読むといいかも」
「『はじめての大拙』? 禅の本ですか?」
「そう。編者の大熊玄さんは、鈴木大拙に関する書籍を多数出している人だ。この本では、彼の一〇八の言葉を紹介している」
「出版社どこですか?」
「ディスカヴァー・トゥエンティワン」
「思い出した! ここと永岡書店の本を取次へ返す人がいまだにいるんですよ。朝、荷開けの時に『また逆送か!』って」
「へえ」
「大きな声では言えないけど、あれ社員の○○さんっぽいんですよね。先輩が教えてあげた方がいいと思います。戻ってきちゃうから、直返品の処理を覚えて自分でやれって。いつも私が代わりに」
「・・・覚えておこう」
「あ、すいません。何の話でしたっけ?」
「46ページを開いてみて。こんなことが書かれてる」

意識的でありながらしかも無意識であること――これが「平常心」である。

「はじめての大拙」 鈴木大拙著 大熊玄編 ディスカヴァー・トゥエンティワン 46P   

「・・・意味がわかりません」
「接客用にテンションを上げながら、なおかつ冷静な自分も残しておく。両方が揃って初めて『平常心』になるってことだろうな」
「それって矛盾してませんか?」
「そんなことを言ったら俺も矛盾してる。今日は早出だとわかっていたのに、遅くまで本を読んでいて寝不足だ。おかげで頭がぼーっとしてる。こんなの良くないとわかっていてもやってしまう」
「読書ならまだいいじゃないですか。私も同じく眠いけど、スマホでゲームのプレイ動画を見てたのが原因です」
「でも俺たちは『寝なきゃ』と思いつつ『見たい、読みたい』を実行した。いまも『眠い。帰りたい』と『働かなければ』を共存させている」
「あ、そういうことですか」
「おそらく」

「他にはどんな言葉が」
「いちばん好きなのは109ページだな。こんな文章が記されてる」

禅が好んで用いる比喩がある。
月を指すには指が必要である。だが、その指を月と思う者はわざわいなるかな。

同109P

「わかった気がします」
「ほう」
「『平常心』でいるのは大事だけど、店長の『レジではもっと落ち着いて』という助言がイコール『平常心』の正体ではないってことじゃないですか?」
「そう、なのかな」
「そうですよ。店長はただレジでミスをするなっていう当たり前のことを口にしただけ。言われなくてもその言葉の意味はわかってるし、誰もしたくてしてるんじゃない。落ち着けのひと言で落ち着けるなら苦労しません。でも大拙の言葉は、言葉の意味じゃなくて右脳的なイメージを届けてくれました。ミスを防ぐには『平常心』が不可欠で、それはこういうものじゃないかって」
「つまり店長の発言が『指』で大拙の言葉こそ『月』か」
「先輩冴えてますね」
「おかげで眠気が吹き飛んだ」
「私もです」

ミス云々は決して他人事ではない。忙しいと接客が雑になりがちだから、クレームも発生しやすい。とはいえ「平常心」を意識し過ぎても本末転倒。意識したうえで意識から遠ざける。これを実践していこう。

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