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ハードボイルド書店員日記【182】

「月末に○○書店がオープンするね」

週刊誌を買いに来た常連の老紳士がレジで呟く。

春休みが終わって落ち着いた平日。尤も数週間後にはゴールデンウィークがやってくる。「お客さんは、自分が休んでいる時に周りが動いていることを当然と考える」メンターが年明けの朝礼で話した言葉を噛み締めた。

「知りませんでした。教えていただいてありがとうございます。すぐ近くですか?」
「高速道路を挟んだ反対側だね。△△ビルの1F」
何度か足を運んだことがある。当時はカフェチェーンや北欧系のインテリアショップ、旅行代理店などが入っていた。
「駅からだとあっちの方が近そうだよ」
「ですね」
件のエリアマップを脳裏に浮かべた。昼休みや仕事帰りに「週刊ダイヤモンド」の最新号及びコミックの新刊を買いに来るスーツ姿の数人は、おそらくあの辺りで働いている。

会計を済ませ、プラスチックのレジ袋へ詰めた。有料だけどこの人は毎回購入する。だが「袋は?」と一応訊ねることは欠かさない。今日はなくても大丈夫という日に言い出しにくいと感じさせたら申し訳ないからだ。

「お待たせいたしました」
「ぼくはこの店が好きだからここで買い続けるよ」
「ありがとうございます」
「でもなんでわざわざ食い合うようなことをするのかねえ。ただでさえ本屋さんは苦しい時代なのに」
「そうですね」
個人経営のいわゆる独立系や紀伊國屋新宿本店クラスの超大型店がオープンするのなら理解できる。ここでは置かない(もしくは置けない)本に出会える可能性が高いから。しかし相手方はウチと同じ規模のチェーン系だ。品揃えの傾向もさほど変わらない。

「大丈夫かい?」
「影響はあると思います。特に雑誌とコミックの売り上げに」
でも、と言葉を繋ぐ。
「状況をいい方向に捉えることも可能です」
老紳士が急いでいないことを確認した。カウンターを離れ、仕入れたばかりの一冊をビジネス書の棚から抜き出して戻る。

「それは?」
2016年にコトノハから出た「わがしごと」だ。著者はwagashi asobi。
「大田区上池台の商店街にある『ドライフルーツの羊羹』と『ハーブのらくがん』の2品だけを販売する和菓子屋さんの本です」
いまは羊羹だけみたいですけど。付け加えて手渡す。
「よろしければ140ページを」
こんなことが書かれている。

「極論を言えば、wagashi asobiのお店の前に、どら焼き屋さんができても、もなか屋さんができてもいいのです。棲み分けさえできていれば、お客様を奪い合わずに経営が成り立つわけですから」
「むしろ、そうしておいしいどら焼き屋さんや、もなか屋さんができれば、『あのまちに行けば、おいしいお菓子が食べられる』と認識され、もっとまちが栄えるかもしれません」

「なるほどね」
ページを捲り、小刻みに頷いてくれた。
「棲み分けさえできれば、このエリアを『知る人ぞ知る本の街』にできるチャンスなわけだ」
「なので、向こうのお店があまり置かないタイプの本を仕入れることを意識してみます」
容易くないのは承知している。加えて私は店長でも正社員でもない。できることに限りがある。だが何もしなければ状況が厳しくなるだけなのも事実なのだ。

「あれは4年前かな?」
帰ろうとして立ち止まった。誰も列に並んでいない。老紳士は背を屈め、私の目を見て声を潜めた。
「ちょっと遠いけど○○書店の×××店まで行ったんだよ。この辺りの本屋はどこも休業してたけど、あそこは開いてたから」
一瞬息が詰まる。当時私はその店で働いていたのだ。
「事務所の近くにある棚を眺めていたら、店長らしき人の話す声が耳に入ってね。『他が閉まっているいまこそ客を奪う絶好のチャンスだ』って」
「ああ」
知っている。言った人の顔と名前も。
「それからは、もうあそこでは買わないって決めてるんだよ」
とても大事なことを伝えられた。

「連休中はかなり混むだろうけど、まあ頑張って」
「色々ありがとうございます」
それからね、とさらに声のトーンを落とす。
「アンタさ、いつもぼくに『袋は?』ってだけ問い掛けてくれるでしょ。アンタ以外の人は『レジ袋はご入り用ですか?』って初めて来たお客さんみたく訊ねるか『袋ですよね』って当たり前のように会計する。だからぼくはなるべくアンタがレジにいる時に買いに来るようにしてるんだ」

こういうお客さんもいてくれるんですよ、メンター。だからこれからも私の「わがしごと」は書店員だ。

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