はじめまして、コーヒー豆ネットショップの「BEPOLITICAL」です。タイトルにもあるように、難しくする気はないのです。店名が既に簡単ではないことは百も承知なのですが、4年前に「今の気分で(それまで生きてきた中で出た物事の捉え方)これしかない」と賛同できた名は、今でもしっくりきていて、「何をやっていても、何が好きでも、何を買っていても、ポリティカルな視点を持って動こう」という一種の注意喚起的な意味合いを込めての「be political」。 4年前、「無光虹」という芸
この目の前の状況が良くなればいいと、ただそう考えて動いているだけなのに思うように物事が進んで行かないという事はよくあると思う。物理的な状況や環境のせいで上手く行かないならまだしも、原因が「人」である時はぐっと滅入ってしまう。何故ならきっと誰もが人の事は悪く思いたくないわけで、自分の意見を押し付けたいわけでもなくて、ただ自分は純粋に良いと考えている事なのに反対だと考える人がいる事に落胆するのだ。 そりゃそういう事もある。物事の好き嫌いなんて人によって様々なのだから意見、主
米粒の大きさにも満たない小さな蜘蛛が、たった一晩の間に蜘蛛の巣を作っていた。正確には数時間ほどしかかけていないだろう。自分の体から出した糸で自分の体の何百倍もの大きさの巣を作ってしまう。人間なんてああしたいこうしたい考えていても、そんなはっとするような変化をなかなか起こせるものじゃないし、ありとあらゆる材料を使って、考えて考えて、一人より二人、二人より三人の力を信じて時間をかけて何かを作ったりする。どちらが優れているとかいう事ではなく、そういう性質の全く違う生き物の存在を再
未来とは、どれくらい先のことを言うのだろう。とりあえず自分はもう生きてはいない頃か。未来のために私に出来る事は何だろう? 考えてみるけど何も浮かばない。世界のルールを決めるような重要人物ではないし、国を背負って働く国家公務員でもない。未来のためというより自分のために生きている。 それなら、考え方を変えてみる。今の私が影響を受けていて、この世にはもういない人っているだろうか。いるとしたらその人はその人生でもって「私という未来」のためになる事を遂行してくれた。そう考えたら、
この間、「今や環境問題も資本主義社会に持っていかれた感じだし。」という声を聞いた。お金儲けの道具に環境問題を使ってると言いたいのだろう。環境のためになっていようがなっていまいが、イメージアップと売上アップになればいいだけだという事だ。気持ちは分からないでもないなと思ったけど、少なくとも何もしないよりはきっとマシなんだよなとも思った。 特に大きな企業であればあるほど、直面している問題にきっちりと取り組めば社会全体の好転へと繋がる可能性もゼロではない。きっちりと取り組めば。
焙煎作業も暑い。 エアコンを効かせれば焙煎室内は快適になるが、快適なのは人間の肌感だけで、本来火のカロリーで作り上げるコーヒー豆にとっては「冷やしたいのか熱したいのかどっちやねん!!!」ってなるだろう。 実際、強制的に冷やそうとする風が焙煎機の温度上昇に悪影響を与えるし、その日の気温や湿度に合わせて焙煎しているのに、さらにエアコンの調子に合わせてまた合わせに行ってる感じがとてもストレスだ。どんな環境でも同じように仕上げるのがプロだろと人は思うかもしれないが、わざわざ
誰かの事を想って取る行動にはストレートに力が乗っかっている。と、感じる。誰の目から見ても正当な「人のため世のため」という大義がそこにあるからだろうか。どうもそれだけじゃない。 きっとどんな事をしても、どんな一日を過ごしても、どんな結果が待っていても「私が決めたわけじゃない」という気分の楽さが大きく影響していると思う。「真剣じゃない」とか「ふざけている」とかじゃなく、「気楽」に全力を出せる、全力に近い力を出せる。社会上の成果を気にして怖気付いたり、みっともない結果に(何や
おじさんの口から出る文句にも種類がある。誰も食いつかない文句と、理由が気になる文句。 誰も食いつかない文句は終始「出来ていない」事を延々と口に出し、明日へと続きようのないフルストップの批判。いつも批判の先にあるのは自分が許容出来ない変化。 時代を担うのは次の世代なのだから、伝えて行かなくてはならない事は、柔軟性を失った発展性の無い姿ではなく、叡智に溢れた救済と牽引力に輝く姿であって欲しい。 一方、理由が気になる文句は簡単な是非から成るものじゃなくて様子や程度に対
何か新しい考えを自分の暮らしに取り入れようとするとき、完全を目標にする必要はないと思う。目標は高い方が良いが、達成して終わり、という結果重視ではない事の方が人生の中には多く存在する気がするから。 地球に良い事をしたいなあとせっかく責任と興味を持ったとしたら、辻褄が合っていなくても良いから先ずは始める事だと思う。突然菜食主義になってヘンプでできたエコバッグにオーガニックの野菜を入れて歩く必要はない。そうしたいのならすれば良いし、それは選択の一つ。ただ、100点満点に良いこ
気が向いたらするかもしれない。気が向いたら行くかもしれない。そこまで思えているというのは、ほとんどGOサインのような気がする。ひょっとすると「またすると思う」や「また行くね」よりも「気が向いたら」という個人の意識にわざわざ植え付けたような、相手との繋がりの糸を張ったままにしているような気がして可能性を感じる。 それなら、あとはその人の気が向く所に私が(あなた)が立つようにすればいい。気が向くのを待つのではなく、向いた先に立っているように努力する。 簡単な事ではないか
人生であと何回本気になれるかと思う。普段の生活や仕事に於いてその姿勢が求められる時には「真剣にやろう」とか「一生懸命にやろう」とかもちろん心がけている。けどふと、「あの時は本気だったな」と思い返す経験の中には大概、力不足を痛感しながら必死にもがいてやり通そうとしている自分がいる。 足りてない、思うように行かないからこそ、それを何とかしようとして必死に出来る限りの事をしようとする頭と体があって、そういう時には自分の100%の本気でのみ時間が動いているような気がする。その時
八十代や九十代の方々と接している時、ふとした瞬間にその人が輝いて見えるときがある。目の力だろうか。今までに三、四回はあった。その人が生きてきた証が何かの会話の拍子などにふと目に宿るような。実際に眩しいわけではなく、まるでその時点での命の自覚度合いが光量で示されているような。完全に負けてしまっている時に、あ、眩しいな。と思う。 よく「今年一番輝いた人」みたいなタイトルで各分野で最も優れた成果を出した人々が挙げられているけど、そういうのでもない。みんなに「わー」っと称賛され
良く冷やしておく、良く温めておく。 そういったことぐらい気を抜かずきちんとしたい。たいして難しくないことの中に、初心を忘れずにいるための要素があると思うから。 人との関係でも物との関係でも、一旦知った気になって安心すると、「それまで気にかけていたから今がある」という事を忘れて根拠の無い大丈夫が顔を覗かせる。慣れた手つきは日々の積み重ねから得られる喜ばしい動作だけれど、待てよ、それは適当になってはいないか。 そういう事を意識しながら焙煎もしている。取り組み方なら自分次第
BEPOLITICAL のコーヒー豆の焙煎度合いは「フルシティプラス」。フルシティからまだ少し焙煎を進めたところ。深い方です。自分のイメージとしては中煎りを留めた深煎りの辺りでしょうか。目安はカフェラテにした時に美味しいかどうか(主観です)。ただ苦くてリッチなだけではなくて豆の持つ酸味、甘み、豆々しい旨味も残したエスプレッソを抽出できるように、を目指しています。 豆は東ティモール産。それ以外は焙煎していない。東ティモールのコーヒー豆はしっかりめの味が好みの方にとても向い
日の出と共に起きて、行動する。日暮れと共に家に帰り、寝支度をする。そんな生活が送れたらいいなあと思いながら夜になってブラインドを閉めるし、暗くなってからのコーヒーが美味しかったりする。 太陽と共に動くのが人間らしいはずだがそういった生活リズムで過ごすのは生後どれくらいまでだろう。物心がついた頃には確実に夜更かしが始まっている。 そうなると、もう人間らしいのはどちらなのか。夜行性の動物だっているし、夜型で支障なく暮らしている人もいる。「野生の本能」なんてタイトルの本が
造語でもない限り、検索結果がゼロになることなんて無いくらい、ネットを使えばいろいろな事を調べることが出来る世の中になって、何でも知っている人が増えたと思う。検索能力が優れていればそれだけ速いスピードで知識を増やしていける。 「物知りだね」という賛辞のニュアンスを含んだ言葉は時代によってその意味合いを変えている。物事を良く知るとはどういうことなのかなあと、そして暮らしていく中で、それはどれほど重要なことなのだろうかと考えたりする。 結局、何でも知ってたって、普段の暮ら