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さみしくない暮らし

 焙煎作業も暑い。

 エアコンを効かせれば焙煎室内は快適になるが、快適なのは人間の肌感だけで、本来火のカロリーで作り上げるコーヒー豆にとっては「冷やしたいのか熱したいのかどっちやねん!!!」ってなるだろう。

 実際、強制的に冷やそうとする風が焙煎機の温度上昇に悪影響を与えるし、その日の気温や湿度に合わせて焙煎しているのに、さらにエアコンの調子に合わせてまた合わせに行ってる感じがとてもストレスだ。どんな環境でも同じように仕上げるのがプロだろと人は思うかもしれないが、わざわざ難しい環境を作り出したくないので豆の選別や釜の火入れの間は若干部屋を冷やすけれど、豆への火入れが始まれば暑いのを受け入れてエアコンを切る。自然現象に対して感覚を使うのは難しくても気持ち良くて、人工的現象に感覚を使うのは少し馬鹿らしい気分になる。このエアコンのエネルギーは使う必要があるのだろうかと。

 コーヒーは嗜好品だ。主食でもなければ主菜でも副菜でもない。飲まなくても不健康にはならない。コーヒー豆を取り巻く歴史などは現代社会から見れば負の要素で満たされている。それでも人はコーヒーを愛して止まなかったし、無いとさみしい。そういった部類の商品作りに対して私は、作る側の責任を自問する。良い事か悪い事か。考え出したらキリが無いのであるが。出来る限り良い事を選択し、好ましくない事を減らしたいと考えている。そこからでないと始まらない。

 何もない所から何かを作り出す行為は様々な大儀の裏で害を孕んでいる。それはより多くの人の笑顔を生み出すから許されて、そうでない小さな者は許されないという事ではないと思う。エゴであり、皆、同罪なのだ。それをどう背負って、無くてもいい付加価値の存在を扱うのか。さみしくない暮らしのために。

 私たちはいろいろな選択が出来る世の中で生きている。それが全く出来なくなってしまう未来が来ないとも限らない。その危うさは多くの人が感じているはず。問い続けること、それが未来を動かすための良い準備になるのだと思う。

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