「記憶」成って「想い出」
未来とは、どれくらい先のことを言うのだろう。とりあえず自分はもう生きてはいない頃か。未来のために私に出来る事は何だろう? 考えてみるけど何も浮かばない。世界のルールを決めるような重要人物ではないし、国を背負って働く国家公務員でもない。未来のためというより自分のために生きている。
それなら、考え方を変えてみる。今の私が影響を受けていて、この世にはもういない人っているだろうか。いるとしたらその人はその人生でもって「私という未来」のためになる事を遂行してくれた。そう考えたら、、いた。私の祖父だ。彼が亡くなって二十年以上が経つ。だから彼にとって今の私が未来。ではどんな影響を私に与えているのか、それは「想い出」。
私の幼少期の性格は真面目で怖がり、だが祖父は一味違った。今でも鮮明に思い出す、立ち小便をした後の飄々とした祖父の顔。あろう事か娘夫婦と孫たちの住むそんなに田舎でもない住宅地の目と鼻の先、川べりに連なる桜並木のその袂で時折用を足していた。車も通れば人も通る。もちろん見計らっていたとは思うが私の家から歩いて数十秒、家のトイレですればいいのに、それでもあのスタイルを選んでいたのは山間いの田舎で暮らす彼にとって気持ちが良かったのか、それとも嫁にやった先のトイレを使うのは申し訳ないと気を使っていたのか。立ち小便なんてよくやるなと近所の人に見つかりはしないかハラハラしながら、それでもそんな事をやってのける度胸と非常識さを少し羨ましく感じながら、洒落たジャケットを羽織った後ろ姿をそっと眺めていた。
断片的な記憶だ。もしかしたら私が多少作り変えてしまったかもしれない。それでも何かの拍子に思い出すと、何故だかその時に抱えている頭なのか心なのか、荷物の重さがふわっと軽くなるようで、祖父との想い出が私という存在をただ肯定してくれている。ここにはいない人の事をはっきりと思い浮かべる事で自分の命を生々しく感じる。なんてことないささいな記憶も私を作っている様々な要素の一つであって、思い出す「一瞬という今」がここにいる私を証明する。生きているんだ。
ひとりひとりが生きなければ未来は続いて行かない。私もただ私の人生を生きるのだけれども、それは未来を創る要素の一つなのだ。未来の中の誰かの命と遠いどこかで繋がれた誰かの記憶。その記憶に少しだけ色が添えられた、そんな「想い出」の一部となりたい。
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