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綺麗事じゃない助け合い

 誰かの事を想って取る行動にはストレートに力が乗っかっている。と、感じる。誰の目から見ても正当な「人のため世のため」という大義がそこにあるからだろうか。どうもそれだけじゃない。

 きっとどんな事をしても、どんな一日を過ごしても、どんな結果が待っていても「私が決めたわけじゃない」という気分の楽さが大きく影響していると思う。「真剣じゃない」とか「ふざけている」とかじゃなく、「気楽」に全力を出せる、全力に近い力を出せる。社会上の成果を気にして怖気付いたり、みっともない結果に(何やってんだか)と落胆する事も無い。自己責任の呪縛とは無縁の所で、シンプルに自分の可能性や得意不得意を発見したりできる。一人でいい、一人で生きて行けるというセリフはセリフでしか無い。助けられたり助けたりがもたらす効果は絶大な気がする。

 ただ、簡単には人助けできる自分にはなれない。先ず心身共に割と健康でなければならない。僅かでも余裕が無ければ難しい。地位とか名誉とかお金の余裕とかじゃなくて、電車で席を譲ろうかなと思えるくらいの余裕とか、くだらない動画を見て笑える余裕とか。その余裕が持てたとして次は手助けさせてくれる相手が必要。いくらやる気満々でも誰かがその気持ちを受けてくれないと助けにはならない。どんな小さなことでもその人が助かったと思えば助けになったのだし、助かったと思えてなければ残念ながらその人の助けにはなっていない(自分のためになる事はあるが)。

 そして、助けられる自分でもいいのだと思う。助けられる自分がいて、助ける誰かがいる。助けられた経験があるから助けようと力が出る。そうやって繋がっている。利用したり利用されたりの嫌な面に遭遇する事もあるかもしれない。でも「想い」を大事にしていれば回数を重ねるうちに自分なりの助け合いの道が見つかると思う。

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