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【人生ノートMagazine】念うところ世界なり

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人生ノートの中から人生の生き方や日々の生活に沿ったことについてに書いてあることに焦点を当ててまとめてみました。
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2022年2月の記事一覧

【人生ノート 264ページ】文字どおりの、一切を超越した大バカ、大阿呆者になることが一番必要だ。

一切を超越した大阿呆に水晶になりきるまでは、省みたうえにもかえりみて、大神さまのことを忘れぬようにせねばならぬ。少しでも、瑞の霊さまを遠ざかるような気持が出たときは、すなわち邪霊にいらわれかけている時であるから、われとわが身をたたきつけるほどの真面目な、厳粛な気分にならねばならぬ。 瑞のみたまさまのお許しなきことは、何ひとつ、真にできよはずはないのだから、よくよく省みねばならぬ。 ちょっとでも名利心や執着心があったなら、えたりかしこしと、悪魔につけ入れられるにきまているか

【人生ノート 262ページ】自己以外のものから、自己の養分をえらび採って、たがいに自己を肥してゆけばよいなり。

特長を発揮せよすべて規則的のことは一般的の場合をいえるものにて、十人十色、百日百態の世なれば、この一般的のことをもって、単個のものにおし及ぼさんと強いるなかれ。 すべては共通していて、また相違している。 単個それぞれにその特長を発揮せしめるこそ、神の真の思し召したるなれ。単個それぞれ自己を主張し発展さして、はじめて真に世の中が調和されてゆくように造られてあるなり。 みな、自己を発揮せずに、ガラにもき真似をしているから、世の中、ゴテつくなり。 ○ 囚われていないといっ

【人生ノート 261ページ】同一の材料をもとにして、ほめることも出来れば、くさすこともできる。

世の中とはこんなもの 道徳上の箇条書を、いくら記憶していたところでなんにもならぬ。 何によらず、すべて「こうこうするのがよい」と悟ったならば、その時からすぐに、それを着手し実行すべきである。 善悪正否の道理は誰でも知っているが、その知っていることが、いざという時になると行なえぬだけだ。 到底おこない得ぬことを覚えていたところで、荷物になるばかりだ。 ○ この世には、何によろずピンからキリまであるということを、よくよく実地について見きわむべし。 そして、いまの自己

【人生ノート 260ページ】自分の心がいま在るような霊界に、人は住んでいるのである。

相応の理相応の理ということを考えてみる。 われを形成している霊体と、因縁あるものと結びつきたがる性質が一切のもにある。人間が食物として五穀・野菜・魚・鳥等の肉を喰(くら)うのも、それが人の肉体を形成するに必要なからである。 また人々の性質によりて春が好きな人、秋を好む人、東京に住みたがる人、京とをよしとする人、まる顔がよいという人、瓜ざね顔がよいという人、山を好む人、海を好む人 … というふうに、十人十色になっているのである。これらすべて、自己を形成し増大するに適当なもの

【人生ノート 259ページ】人は自己が敬愛する人のために、自己を犠牲にすることを喜ぶものである。

万物調和の感情 人は自己が敬愛する人のために、自己を犠牲にすることを喜ぶものである。言いかえれば、自分より目上の人より仕事を命ぜられることは光栄であり、自分の好きな者のために仕事をしてやることは愉快なのである。この感情は、ひとり人間のみが持っているのではなくして、宇宙万物が持っているのである。牛馬は、人間のために適度に使役されることが本懐なのであり、米麦は人間の食料となることを念願としているのである。また人間は神の生宮となって活動することを、唯一の愉快としているのである。

【人生ノート 258ページ】理屈を好まぬおだやかな、ぼんやりとしたあたたかい心が神の心である。

変通自在、千変万化自分はえらいとか、これこれの力を有していろとか、あの人は博士だからとか、大臣だからとかいうような先入感は、人と接するに際して非常な禍をなすものである。 特に人は死ぬる時までが修養の期(とき)であるから、四十になっても五十になっても、「自分はもう年がよったから … 」というような考えをおこして、ずるけたり、しょげたりしてはならぬ。人はいつになっても「わしはまだ赤子だ」と思っておればよい。ひとの毀誉(きよ)を超越して、毎日少しずつでも修養して行くべきである。「

【人生ノート 257ページ】真の人格者というのは何となく人をひきつけ、人を操縦する天賦の能力をもっているものです。

真の人格は真の霊格より精霊に充たされたときの気分と、俗にかえったときの気分との相違ということをしみじみと感じます。両者の間には雲泥の差があるのです。 凡人が大真人の胸中を推しはかることの出来ぬのは、アリが富士山を測量することが出来ぬのと 同じわけです。上にはうえがあり、下には下がある世の中です。われわれは、あくまでも上長者の命に服するよりほか、仕方はないのです。 宇宙は一つですけれども、宇宙内の諸精霊は、惟神に、それぞれ限られたる領域をゆるされているのであって、その領域

【人生ノート 256ページ】

信ぜよ、愛せよ、赦し合えよ!私はいま静かに、わたし自信を省み、吟味してみたいと思います。 私は今しばらくの間は、まだ二重人格であります。私の肉体を戦場として、善玉と悪玉との二つが始終闘いつづけているように思われます。清いすがすがしい秋の夜の高嶺の月のような気分になることもあれば、また実にいやらしい、どこか狭苦しい路地の奥へ奥へと押し入れられるようなものを背に負うているようでございます。そして、ともすれば、孤独的になり、見るもの聞くものに何の感興も湧かず、いらぬことを疑ったり

【人生ノート 255ページ】 思うたことをサッサと片づけて、頭を常に空にしておく工夫が肝心だ。

人間は人間を基調として。○ 人間は、とにかく、したいようにするのが一番よい。現代人は次第に科学のために、天賦の本能というものを鈍らせているが、いくら科学が進歩したって、本能ほど鋭敏に、かつ生活に導いてくれるものはありはしない。せっかく与えられている驚くべき霊能を活用せずして、これに錆をつけていることは実に悲しいことである。 科学は遊戯であり気まぐれの仕事であって、決してこれが人間を導いてくれるものではない。人はこの世幸福に生きて行くことが第一義であって、科学はそのためにの

【人生ノート254ページ】いろいろな目に会うて知るものの恩

外的行為と内的心境こうしてはよくないと思って、そうせないように努力するのは、こうしてもかまわぬと思いながらも、何かの便宜上、そうせないことよりも、はるかに偽善的でない。 ○ 善をこころざして善の真似をするのは、まことに結構であるが、悪をこころざして善の真似をするのは、あきらかに偽善である。 その外部的行為は両者とも同様であるけれども、その内的の心がけは、前者と後者とはあべこべである。 ずるい人は、いかにも、その外的行為は結構であるが、内心は実にけしからんのである。あさ

【人生ノート 251ページ】野心なく心なく心にくろき影なくば天上天下唯我独尊

無限と永遠性が神性無限性と永遠性とが分からねば霊界は分からない。有限につくられているわれわれからは、無限のことは分からぬのは当然であるが、体は有限性でも霊は無限性であるから、全然、考えることが不可能というのではない。ただ、肉体のために掣肘をうけて、霊が全的活動をせぬからぬすぎぬ。 霊界は無限であるということは、それ自身無限であって、理論でもなんでもない。無限であるから無限であるというまでで、証明も方式も何もあったものではない。 無限と永遠性とが、すなわち神性なのである。わ

【人生ノート 250ページ】利によりて集まり、利によりて散ずる現代ほどバカげておる世はない。

阿諛諂侫(あゆてんねい)の世普通の人が、いかに阿諛性に富んでいるかをよく見てみるがよい。多少の名の売れた人、あるいは貴顕の人とか、上長官とかに対して、一般人がその一顰一笑(いっぴんいっしょう)に、いかに阿諛の限りをつくしているかということ、および、民衆とはザッとこんなものであるということをよくよく悟るがよい。彼らには、理解も自覚もあるのではない。たんに、人がほめればほめ、人がけなせば貶(けな)すに過ぎぬ。いわんやほめへつろうて損のゆかぬ場合においておやである。 そして、まだ

【人生ノート 249ページ】みなそれぞれに、無理なしになし得ることを面白くなしていったらよいのだ。

興味もてる仕事を要するに、真実に自己の内心に忠実であったらないのだ。 いかに気ばったところd,英雄ならざる人には英雄のまねはできるはずはないし、哲人ならざる人が、哲人をよそおうことも到底できるものではない。 他人は他人、自分は自分、みなそれぞれに、無理なしになし得ることを面白くなしていったらよいのだ。 無理をすると、どうしても苦悩がともなう。元来、神は人間をその手足として働かせるためには、みなそれぞれに、興味あることをさえして行けば、自然に、その職能が果たしてゆけるよう

【人生ノート 247ページ】偉人を知るは偉人である。

人生は議論ではない人間にとって甚えられないものは単調である。単調な人ほどつまらぬ人である。 苦楽はとにかく、毎日倦怠のない生活を送り得る人は幸福である。 人生は議論ではない。 科学は人間を獣にす。 それぞれ好きなようにするがよい。要するに守護神だけのことしか出来ないのだ。 偉人を知るは偉人である。 善悪いずれにせよ、一切報酬を目的とせぬ行動は美しい。 自己の哲学を至上のものと思うのが馬鹿の骨頂だ。 形で人を観るくせをやめよ。 極端に自己を発揮する人ほど、もっ