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【人生ノート 264ページ】文字どおりの、一切を超越した大バカ、大阿呆者になることが一番必要だ。

一切を超越した大阿呆に

水晶になりきるまでは、省みたうえにもかえりみて、大神さまのことを忘れぬようにせねばならぬ。少しでも、瑞の霊さまを遠ざかるような気持が出たときは、すなわち邪霊にいらわれかけている時であるから、われとわが身をたたきつけるほどの真面目な、厳粛な気分にならねばならぬ。

瑞のみたまさまのお許しなきことは、何ひとつ、真にできよはずはないのだから、よくよく省みねばならぬ。

ちょっとでも名利心や執着心があったなら、えたりかしこしと、悪魔につけ入れられるにきまているから、すべてを惟神にまかして、正しき内流によって活動するよにせねばならぬ。赤児のごとき無邪気な恬淡な気持にさえなっていたら、真の活動ができるのだ。人間の知恵や利巧にたよるのが一番いけない。

文字どおりの、一切を超越した大バカ、大阿呆者になることが一番必要だ。

心でさえ思うていたらよい、という考えも悪い。心で思うていることは、かならず形にあらわさなくては、どっちつかずのものだ。なんでもない動作でも、みな、やむにやまれぬ霊界からの流入の結果によるものであるから、したいことは、考うることなしに、どんな些細なことでも、一通りしてしまうのが真だ。これは、心とまるで反対のことをする偽善家よりは、よほど罪があさい。腹に持っていて、これを押さえているのは、たしかにつみだ。

したいことは、一通りやってみねば、神意得心のゆくものではない。悪かたら骨身にしみるから、はやく徹底した悟りへはいれる。善悪一如が宇宙の真諦だ。最初から、善ばかりにおろうとあせるから窮屈になってしまうのだ。どうせこの世は悪にできており、人間は利己になっているのだ。この悪から次第に善に入り、善悪不二の真理を悟ったら、はじめて、一切を、それぞれ、そのままに抱擁することのできる

大慈大悲心になれるのだ。

悪はいかん、と頭から拒絶し排斥せんとするのは間違ったことだ。悪であるから救われるのだ。

いま少しく、人間の善悪に対する観念が違って来ねばいけない。

『信仰覚書』 第四巻 出口日出麿著

【これまでnote】


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