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【人生ノート 260ページ】自分の心がいま在るような霊界に、人は住んでいるのである。
相応の理
相応の理ということを考えてみる。
われを形成している霊体と、因縁あるものと結びつきたがる性質が一切のもにある。人間が食物として五穀・野菜・魚・鳥等の肉を喰(くら)うのも、それが人の肉体を形成するに必要なからである。
また人々の性質によりて春が好きな人、秋を好む人、東京に住みたがる人、京とをよしとする人、まる顔がよいという人、瓜ざね顔がよいという人、山を好む人、海を好む人 … というふうに、十人十色になっているのである。これらすべて、自己を形成し増大するに適当なものに近づかんとし、これを採り入れんとし、しからざるものより離れんとする傾向を、俗に、好き嫌いといっているのである。
ゆえに、自己が向上してゆき、清浄になってゆけばゆくほど、自己が霊体に採り入るるものも向上してゆき、清浄となってゆくのである。すなわち、自己が良しとして選むもの、よしとして行く所等が、すべて、より向上してゆき、より清浄になってゆくのである。これ、とりも直さず、自己の住する世界が、漸次、進化してゆくことなのである。
以上は、能動的(アクティブ)の方面をのみ見たのであるが、受動的(パッシブ)の方面もあるのである。
すなわち、至仁至愛の神さまは、一切のものに神光と神温とをあたえて、一切をドンドン清浄にしてゆき、向上さしておられるのである。
自己が向上してゆき、清浄になってゆくということも、詮ずれば、決して自己独自の努力によるのではなくして、大神さまの内流によって洗われるからである。人の努力は、単に、内流をよりよく受けるように待ちもうけるにあるだけである。
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自分の心がいま在るような霊界に、人は住んでいるのである。
自分の身体が、いま在るような現界に、人は住んでいるのである。
『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著