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【人生ノート 257ページ】真の人格者というのは何となく人をひきつけ、人を操縦する天賦の能力をもっているものです。

真の人格は真の霊格より

精霊に充たされたときの気分と、俗にかえったときの気分との相違ということをしみじみと感じます。両者の間には雲泥の差があるのです。

凡人が大真人の胸中を推しはかることの出来ぬのは、アリが富士山を測量することが出来ぬのと

同じわけです。上にはうえがあり、下には下がある世の中です。われわれは、あくまでも上長者の命に服するよりほか、仕方はないのです。

宇宙は一つですけれども、宇宙内の諸精霊は、惟神に、それぞれ限られたる領域をゆるされているのであって、その領域の、より広いものほど、よりえらいものなのです。稲は人によって作られ、人は神によって作られる。作られるもおは、どうしても作る者に従うの外ありません。

霊格というものは先天的のものであって、後天的の学問知識などの有無に、何の関係も持っていません。外形的の資格や権威などを標準にして、人に接するというのは、ただ今の世では全然間違っています。人と交わるには、すべての先入主を去って、虚心平淡であらねばなりません。強いて人を批評しようと思ったり、初めから、この人はえらいとか、あかんなどとか思っていてはなりません。とにかく、つねに自己の心の奥底に問うて、そのままに万事ふるまうべきであります。

人の心は秋の空どころではありません。時々刻々、移り変わっているのであります。ゆえに何事に対しても、一定の標準というものがあるものではありません。世界は動いているものなるがゆえに

真理の実相もまた、動いているものでなくてはなりません。人はそのときどきの気持ちを尊重して、出来るかぎり、それに従って行動したらよいのです。

科学などというものは、畢竟ずるに、人間的理智の所産であって、大きい神の目から見たまえば、噴飯にたえぬ小理屈かも知れません。しかし、これは人間としては仕方のないことであって、科学も結構なものに相違ないのですけれども、これを過信して、あたかも絶対の真理かなんぞのように思い込むのが、非常に悪いのです。

学者なるがゆえに、智者なるがゆえに、えらいと思う傾向が悪いのです。人間的暗記や推理のすぐれているということと、人格者である偉人であることとは大変な相違のあることです。真の神格は真の霊格より来たるべきものであって、決して、定理や述語の暗記力の強いことを意味しているのではありません。学者というものは、要するに一種の技術者であって、大工が家を建てるに巧であるように、彼等はいろいろの理屈を組み立てることに巧妙なのであります。

真の人格者というのは何となく人をひきつけ、人を操縦する天賦の能力をもっているものです。
今日のごとく、真の霊格を無視した社会階級というものは、どうしても改造すべきものであります。

『信仰覚書』第一巻 真の人格は真の霊格より 出口日出麿著

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