
【人生ノート 256ページ】
信ぜよ、愛せよ、赦し合えよ!
私はいま静かに、わたし自信を省み、吟味してみたいと思います。
私は今しばらくの間は、まだ二重人格であります。私の肉体を戦場として、善玉と悪玉との二つが始終闘いつづけているように思われます。清いすがすがしい秋の夜の高嶺の月のような気分になることもあれば、また実にいやらしい、どこか狭苦しい路地の奥へ奥へと押し入れられるようなものを背に負うているようでございます。そして、ともすれば、孤独的になり、見るもの聞くものに何の感興も湧かず、いらぬことを疑ったり心配したりいたします。「地獄の心」と私は重います。
するとやがて、前いったような晴れやかな、秋の空のような心になって、赤子のようにそこら中を跳ねまわります。時には風呂の中にジッとはいって、ボンヤリとものも思わずに、眼をつぶっているような静寂な、そして法悦な心境になります。こんな時には、なんだか自分は下界におるべき身ではないかのように考えられます。「天国の心」と私は思います。
こうして私は、毎日、天国へ登ったり、地獄へ落ちたりしているのであります。
地獄の心の時の私は、自分ながら愛想がつきるほど因循で、ちぢかまって泣面をしております。この時私は、よく自分で自分を了解しております。少しでも晴れやかになりたい、これではならぬと努力いたしますが、しかし、これはなんの甲斐もありません。すべて灰色に見えてきます。そしてどんなよいお話も気の合うた友達も、みな私を苦しめるばかりになります。こんな時には、私はただジッと時の経過を待つよりいたし方がありません。そしてつくづくと世の中の人々の中にも、われわれがこれらの人達に向かって、単に口や筆でどんなよいことを知らしてあげても、大した効果はないものだということを感じます。これらの人たちには地蔵菩薩のご容貌でもが、不安に思えるのですからいたし方がありません。彼等の心の世界が清らかになって来なくては、とうていダメです。すなわち魂の修祓が、スッキリと出来てしまわなくてはダメです。ここに到ってはじめて、浅はかな人間的の智慧学問などで、人を救うなどということは、とうてい、不可能なことだと悟らせていただきました。
さいわいに私は、この地獄の心の時はホンのわずかの間で去り、やがて、もとの穏やかな心に返ることができます。ですから、よくこの二つの心を比較して味わすことができ、きたない心になった時には「ここが辛抱のしどころだ」と心の中に歯をくししめて、ジッと気ばって無難に過ごすことができます。しかしそではなくして、絶えず、このきたない心に苦しめられて、世をはかなみ、人を呪うている人たちは、ずいぶん多いことだと存じます。
わたしは、こうした人たちの日常の行動に、よく同情することができます。そして一日も早く、この人達の本守護神が悪魔の羈絆(きはん)から脱して、光りかがやく月日大神のご慈光に、ふれられんことを希望してやみません。
自分自身の心がきたないから世の中がきたなく見え、自分自身の心が狭いから、世の中が狭く感ぜられるのであります。鬼を出そうと仏を出そうと心次第だということを、はじめて、ほっきりと悟らせていただきました。
人はあくまでも、心を広く豊かに持たねばなりません。いくお金があっても、心が狭くひがんで
おれば、すべてがシャクの種、心配の種となるばかりであります。「一瓢(いちびょう)の飲(いん)一箪(いったん)の食(しょく)、肘をまげて臥るも楽しみその中にあり」といった人の気持ちが、この頃になってはじめてわかって参りました。小さいことにクヨクヨと気を遣って、あれでもいけない、これでも悪いと、いらぬ気がねや気苦労する間は、まだ天国はまいりません。
どうしても赤子の純な心に帰って——といっても、いわゆる地獄の心の持ち主には、この赤子の心という意味が明瞭には分からないのですから、まことに困ったことです。「赤子の心」が了解された時は、すでに天国が心中に開けているのであります。地獄の心から発出したものは、どんなことでもすべて暗い影を持っております。たとえ、表面、いかほど整然としている言動でも、地獄に根ざしているものは、なんとなくいやらしく窮屈に感ぜられます。あの赤子のこだわりのない、いきいきとした顔をみてごらんなさい。いいようのない朗らかさが漂うているではありませんか。人のみたまは天地精粋の気の凝りであって、元来は清く朗らかなはずなのであります。それが長ずるとともに、利己心や執着心の奴僕となって、ついつい、われとわが魂を知らず知らずの間に妖邪の気と混合して、
それこそ、生まれもうかぬきたない、けがらわしいものにしてしまっているのであります。
人は決して神でなければ獣でもない。言いかえれば、神であるとともに、また獣であります。どんな悪人でも、時には善を思い聖を思います。深夜、静かに自分というものを内省してみる時、だれだって、今の自分のきたなさに呆れざるを得ないのであります。私がここにきたないとか、人は神であるとともに獣であるとかいった意味は、決して今までの心の狭い道徳家が考えていたように、人間の肉体的の欲望のみを指したのではありません。心の向き方、動き方のことをいったのであります。生きるために食い、栄えるために殖やすということは、これは当然のことであって、今までこういう必然のことを、特に消極的にのみ考えてきたということは、確かに誤っていたと思います。われわれは天地完成の大神業に奉仕するためには、積極的に大いに食い、大いに生まねばならぬのであります。
私のきたないといったのは、つねに自己の行動が打算的で、利己中心なのを指したのであります。人おのおのに設けられているたんたんたる大道に、われとわが心から、横車を押して苦しんでいる
のが現代であります。楽しんで送れる生涯を、われみずからスポイルしているのが、近代人であります。
われわれはあくまでもあせらずあわてず、つねに赤子のごとき気持ちで、のどかに自己自身の道を進んで行ったらよいのであります。これを簡単にいえば「無理のない生活」を送るようにせねばなりません。分に過ぎた希望や力不相応な努力ほど、自己を傷つけるものはありません。だれでもが大臣になったり、大将になれるはずのものではありません。牛は牛づれ、馬は馬づれになってこそ、楽しさはあるのです。このことをはっきりと悟り、そして神を信じ、未来の栄光をみとめて、静かにこの世の努めをはたす心にならねばなりません。
ちょっと人が笑っていても、自分のことではるまいかと疑い、ちょっと蔭でささやいていても、自分に関したことではないかと気を廻すなどというのは、断じて天国の心ではありません。何事でもやたらに考え込んだり、理屈ッぽいことばかりを言うがごときも、決して真の日本魂ではありません。
ひがみ根性が一番いけません。人間は決して心から悪性なものではありませんから、好んで人を陥れようと計ったりなぞするものではありません。しかるに、人は己に何か悪いところがあると、常にそれを気にかけているものですから、人が何か言えば、すぐそれを悪くひがんでとりたがるものです。これが一番悪いことです。他人の行動を、一々悪くとれば際限もないものでして、この世がなんだか窮屈に、住み苦しく感ぜられるのも、人々相互に小さいことを気にし合って、なんとなく好きがあるからであります。
どうしてもわれわれは、人を信じ、人の行動を善意に解し合うようにせねばなりません。今の世には、だんだんかしこい人間は増えていますが、愛らしい人はごく少数であります。ちょっと見て、どことなく人好きのする角のない人は、きっとみたまのきれいな人です。
物事を無邪気に解すということは、実に大切なことであります。子供をごらんなさい。彼等の感情はその場かぎりのものでして、叱られても泣かされても、悲しいと思ったり、恨めしいと思ったりするのは、ホンのその時だけであって、しばらくたてば、もう前のことはすっかり忘れてしまっているのであります。
世の中全体がこうなって来なくてはならぬと存じます。子供は天皇さまの御前へ出てもたいして恐れねば、乞食の前へ立っても、そう侮辱的な態度はとりません。おとなんはどうしても先入主というものがあって、これがために却って、あやまった行動をとるということが往々ありますが、子供にはこれがありません。ただ、その時その時の感じのままを、態度に素直に現わすだけのことであります。これがなかなか大人にはできません。いらぬ気がねや遠慮が、かえって相互の間に隙を生ぜしめることになるのであります。子供でも家庭の悪い者は、こどとなく大人じみて、小さいことにはよく気がつくが、何となく陰惨で、あどけないところが少しもありません。
要するに、自己の本性を強いて隠蔽するということが、非常な不自然であります。自分を真価以上に見せようとする努力が、非常な間違ったことであります。ありのままにあれ、なるがままになれ。これが私の常に叫ぶところであります。行為の裏を考えたり、その裏の裏を考えたりすることは、断じて天国には存在しません。
信ぜよ!愛せよ!赦し合えよ!これが私のモットーであります。
『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著