葦田不見

詩とエッセイ。毎週更新中。エッセイ「水のからだ」で第2回三服文学賞大賞受賞。第一詩文集『 不/見 』発売中🥑 ご連絡はXやInstagramのDMからお願いします。 (アイコン写真:宇治田峻)

葦田不見

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  • ヴィパッサナー瞑想

    ヴィパッサナー瞑想に参加したときの感想一覧です。初めての参加が2018年11月、2回目が2019年3月、3回目が2023年10月です。

  • バイク免許合宿

    バイクの免許合宿に行ったときのnoteをまとめています。

  • 狩猟

    狩猟関連のnoteです

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    詩文集『不/見』

    葦田不見の第一詩文集です。2018年12月出版。手製のブックカバーをお付けして、お送りいたします。ブックカバーはひとつひとつ手作業で紙を切って、折って、重ねる、という作業を経て作っていますので、それぞれ微妙に異なっています。それは、わたしたちの身体が、制作が、あるいはその際生まれる裂傷が、どれも異なるのだ、という本書のコンセプトとも通じ合うものです。ご理解ください。 また、ブックカバーに用いていますトレーシングペーパーとは、tracing、traceする「なぞる紙」であり、あなたがこの一冊の本を読む過程をも、なぞるようにして読んでほしい、という願いが込められています。 表紙絵:airi maeyama氏
    2,000円
    葦田不見(Ashida Mizu)
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    《ひとと ひとと ひとの あい間 ゆ間にすむ》図録

    大阪・中崎町のイロリムラにて行われました、airi maeyamaと葦田不見による絵と詩の二人展 《ひとと ひとと ひとの あい間 ゆ間にすむ》(2020.3.18-3.23)の図録です。 12組の絵と詩が収録されています。15cm四方で、原寸サイズです。全24ページ。 見開き左ページに葦田不見の詩が、右ページにairi maeyama氏の絵が配置されています。 以下、展示のコンセプトです。 画家・airi maeyamaと詩人・葦田不見は、異なる12種類の紙にそれぞれが絵と詩を描き/書き、そこから神経衰弱のようにして12ペアを作りました。それは、偶然性の入り込む余地をあえて設けるということです。線とは、何かを隔てるものである一方で、何かを結びつけるものでもあります。私たちが常識として扱っているものも、はじめは偶然結ばれたものであって、何度もなぞり直しているうちに、それが「当然のもの」になってきたのでしょう。人が通ったところから土が踏み固められていって「道」になるのです。夜空に浮かぶ星座たちも、かつてはただの白点の集合でした。 では、そんな常識をもう一度、偶然の渦の中に放り込んでみてはどうだろうか。いつもとは違う点と点を結んでみてはどうだろうか。そんな思いで、私たちはあえてテーマも決めず、12枚の絵と詩を突き合わせました。そこには、いかにも似つかわしいような照応関係を見出だせるものもあれば、歪に見えるものもあるでしょう。でも、そこに何かしらの関係、あるいは非関係をあなたが見出だしてくれたこと、それがとても貴いことだと思うのです。ただの白点を結び、それをオリオン座と呼んだひとがたしかにこの地にいたのです。 「ひとと ひとと ひとの あい間 ゆ間にすむ」。「わたし」というひとがいる。「あなた」というひとがいる。そして、そのあいまに棲まうひとがいる。「わたし」は乾いて固まった一つの塊ではない。「わたし」は私でありながら、私ならざるものでもあり、でも、私ならざるものでしかないのでもない。「わたし」はあいまにいる。「あなた」が見出だしてくれた「あいま」、そこはおそらく「わたし」が刹那の偶然にすぎないことを、でもだからこそ切なくいとおしいものだということを知ることのできる地点ではないでしょうか。必然、とは、確と掴みなおされた偶然の謂いではないでしょうか。
    2,000円
    葦田不見(Ashida Mizu)
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    詩文集『不/見』

    葦田不見の第一詩文集です。2018年12月出版。手製のブックカバーをお付けして、お送りいたします。ブックカバーはひとつひとつ手作業で紙を切って、折って、重ねる、という作業を経て作っていますので、それぞれ微妙に異なっています。それは、わたしたちの身体が、制作が、あるいはその際生まれる裂傷が、どれも異なるのだ、という本書のコンセプトとも通じ合うものです。ご理解ください。 また、ブックカバーに用いていますトレーシングペーパーとは、tracing、traceする「なぞる紙」であり、あなたがこの一冊の本を読む過程をも、なぞるようにして読んでほしい、という願いが込められています。 表紙絵:airi maeyama氏
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    《ひとと ひとと ひとの あい間 ゆ間にすむ》図録

    大阪・中崎町のイロリムラにて行われました、airi maeyamaと葦田不見による絵と詩の二人展 《ひとと ひとと ひとの あい間 ゆ間にすむ》(2020.3.18-3.23)の図録です。 12組の絵と詩が収録されています。15cm四方で、原寸サイズです。全24ページ。 見開き左ページに葦田不見の詩が、右ページにairi maeyama氏の絵が配置されています。 以下、展示のコンセプトです。 画家・airi maeyamaと詩人・葦田不見は、異なる12種類の紙にそれぞれが絵と詩を描き/書き、そこから神経衰弱のようにして12ペアを作りました。それは、偶然性の入り込む余地をあえて設けるということです。線とは、何かを隔てるものである一方で、何かを結びつけるものでもあります。私たちが常識として扱っているものも、はじめは偶然結ばれたものであって、何度もなぞり直しているうちに、それが「当然のもの」になってきたのでしょう。人が通ったところから土が踏み固められていって「道」になるのです。夜空に浮かぶ星座たちも、かつてはただの白点の集合でした。 では、そんな常識をもう一度、偶然の渦の中に放り込んでみてはどうだろうか。いつもとは違う点と点を結んでみてはどうだろうか。そんな思いで、私たちはあえてテーマも決めず、12枚の絵と詩を突き合わせました。そこには、いかにも似つかわしいような照応関係を見出だせるものもあれば、歪に見えるものもあるでしょう。でも、そこに何かしらの関係、あるいは非関係をあなたが見出だしてくれたこと、それがとても貴いことだと思うのです。ただの白点を結び、それをオリオン座と呼んだひとがたしかにこの地にいたのです。 「ひとと ひとと ひとの あい間 ゆ間にすむ」。「わたし」というひとがいる。「あなた」というひとがいる。そして、そのあいまに棲まうひとがいる。「わたし」は乾いて固まった一つの塊ではない。「わたし」は私でありながら、私ならざるものでもあり、でも、私ならざるものでしかないのでもない。「わたし」はあいまにいる。「あなた」が見出だしてくれた「あいま」、そこはおそらく「わたし」が刹那の偶然にすぎないことを、でもだからこそ切なくいとおしいものだということを知ることのできる地点ではないでしょうか。必然、とは、確と掴みなおされた偶然の謂いではないでしょうか。
    2,000円
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葦田不見のnoteを初めて見るひとのために

こんにちは。葦田不見(あしだみず)です。このnoteでは、初めて葦田不見のnoteを訪れたひとのために、わたしの活動をわかりやすくまとめてあります。目次を設けてますので、気になるところから是非ともご覧ください。 詩詩を書いています。短いものはInstagramにまとめています。その他のものは書き溜めたり、同人誌に寄稿させていただいたりしています。ここでは、その中から1篇、「皆紅」という詩を紹介させてください。8行からなる短い詩です。資生堂さんが主宰しているメディア「花椿」に

    • 「終章」(Jongleur vol.3「死にゆく感覚」より)

      昨日、Electrik神社(東京・六本木)にて、Jongleurというイベントに出演した。詩の朗読をしたのである。そのライブの末尾で読んだ文章を以下に掲載する。 「ロックンロールは鳴りやまない」と歌ったアーティストがいた。まったくもって同感だ。そして鳴りやまないのはロックンロールだけではないだろう。ジャズが、ヒップホップが、メタルが、ポップスが、クラシックが、ブルースが、テクノが、ファンクが、レゲエが、あるいは、あるいは、、、。そう、音が鳴りやむことはない。ジョン・ケージが

      • キャパシティ、と同時に、このイメージを超えていきたい

        キャパ超えちゃってるな〜やばいな〜という自分と、PLUS ULTRAと思っている自分と、さらにそのふたりの自分を眺めている自分とがいる。 キャパをオーバーするとどうなるか。まず、ひとへの連絡が滞る。締切がギリギリになる、あるいは過ぎてしまう。疲れやすくなる。生活リズムが崩れる。ひとに会いたくなくなる。ジャンキーなものが食べたくなる。自己への(同時に他者への)配慮が失われる。原因と結果は逆であることもあるだろうが、これらの現象が起こる。 キャパを超えたときに、どこから犠牲に

        • 2回目の大学講義の振り返り

          このところ好きな本を読めておらず、文章を書けておらず、よくないな、と思っている。思いながらも、今は大学の授業に集中すべきタイミングだとも思っている。90分講義をする、という時間感覚がまだ養われておらず、この前の授業では、とうてい語りきることができないほどの内容を詰めこもうとしてしまった。反省だ。一部の学生を取り残してしまったきらいがある。おれにとっては2回目の授業だとしても、学生にとっては他の授業と変わらぬひとつの大学の講義であって、中途半端な講義をしていてはいけない。 授

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          教員としての大学初講義が終わりました

          調子が悪い。元々の腰痛もこのところひどいし、2,3週間ほど前に痛めた顎もまだ治る気配がない。季節の変わり目というのもあるのだろうが、どことなく憂鬱で落ち着かない。日がな眠いし、疲れやすい。こういうときは、生活リズムを整えること、よく眠ること、家事をちゃんと行うこと、こういった生活の基本に立ち帰ることが重要だと思っている。あ、あとサウナね。いっぱい汗流して、自律神経整える。 先週、大学での講義があった。後期4回目の授業だ。この講義は前任の先生(K先生とする)の辞退によってわた

          教員としての大学初講義が終わりました

          喫煙と禁煙の往還にこそ自由はあった

          煙草を1本だけ吸った。セブンスターメンソールだ。失意も憂いもない。ただ、100日間続いた禁煙が一時途絶えただけだ。 その日の飲みはとても楽しく、3軒目で友人が働いている渋谷のバーに入った。この日一緒に飲んでいたSさんは今はセブンスターメンソールを吸っていて、これはわたしが禁煙前によく吸っていた銘柄でもあった。煙草を吸いに外に出るSさんと369くんについていって、1本もらった。 大きな感動はなかった。いつも通り吸っているような感覚だった。セブンスターメンソールが禁煙前と同様

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          ゴロワーズは煙草ではないので吸っても喫煙したことにはならない

          煙草をやめてから100日が経った。禁煙アプリによると、禁煙本数は2,000本を数え、節約できた金額は60,000円を超えたらしい。ここまで順調に禁煙生活を送ってきた。煙草の煙に近づきすぎることなく、嫌悪しすぎることなく、ほどよい距離を保ちながらやってきた。 原稿の締切が迫ってきていて、おれは苦悶していた。かなり多くの文献を参照したし、準備は万端だったはずだが、妙に筆がノらない。集中して書こうとするのはいいものの、うまくいかないときというのは「悪い集中」とでも言えるような集中

          ゴロワーズは煙草ではないので吸っても喫煙したことにはならない

          大学教員としての第1回目の授業が終わりました

          今期、出身大学で授業を担当することになった。その経緯は以下のnoteに記してある。 先日、第1回目の授業があり、キャンパスを訪れた。大学の学食には名物メニューがあってそれが美味しいので、卒業してからもたまに大学には来ていたのだが、授業をするために訪れるとなるとやはり緊張するものがある。 わたしは真面目な学生ではなかった。いや、正確に言えば、単位を取るのに必要な真面目さというものをあまり持ち合わせてはいなかった。寝坊や遅刻、欠席はしばしばだったし、授業に出れたとしても、期末

          大学教員としての第1回目の授業が終わりました

          第2回三服文学賞受賞作「水のからだ」全文掲載

          この夏、第2回三服文学賞にて大賞を受賞しました。このnoteには、受賞作であるエッセイ「水のからだ」の全文を掲載します。約2,000字です。是非ともご一読ください。 (以下、本文です) 水のからだ わたしの目の前に、一杯のお茶がある。「一杯の」というように、それは実際には器に容れられており、器の形状の制限を受けてこの形にとどまっているものをわたしたちはお茶として名指している。もし今この瞬間、この器が消えてしまったら、お茶は形を失い、卓上をひたひたと拡がっていくことになるだ

          第2回三服文学賞受賞作「水のからだ」全文掲載

          『ナミビアの砂漠』(山中瑶子監督)を観て

          手放しで「素晴らしかった!」とは言いづらい作品だ。それはひとえに、わたしが「男」であることに由来する。ドゥルーズは、書くことの理由は「男であることの恥ずかしさ」にあるのではないかと問うが、自分が決して清廉でも潔白でもないことを知る身としては、この映画は堪えた。あらためて男(としての自分)が嫌になりそうだ。 重たい作品だ。惨めで愚かな男、あるいは男の惨めさ愚かさが表現されており、同時に女側のどうしようもなさも表現されており、それらがはじけており、この映画がひとつの作品として切

          『ナミビアの砂漠』(山中瑶子監督)を観て

          禁煙者だけが吸うことのできる至高の一本について

          禁煙してから2ヶ月半が経つ。おれの周りのシェアメイトや友人たちも次々と禁煙しはじめていて、今は喫煙者の友人を数えあげる方が易しいくらいになってしまった。 禁煙していると煙草を吸う夢を見ることがある。再び吸ってしまわないか、という恐怖心の現れなのだろうが、かくいうおれも、やっちまったと思い、目覚めては、その度ごとに安堵する、ということを繰り返している。煙草を吸う夢をよく見るひとは禁煙の成功率が高いのだ、と先日シェアハウスに遊びに来た禁煙の先輩であるKくんが教えてくれた。ならば

          禁煙者だけが吸うことのできる至高の一本について

          つちとつちのあいだで

           七歳になる甥とよく散歩に出かける。彼は下ネタが大好きな年頃で、路上に動物の糞を見つけてはうれしそうに教えてくれる。どうして子どもはこんなにもうんこに惹かれるのだろう。思うに、それは芸術や文化の第一歩だからではないか。排便は人間最初の創造行為である。非力な赤ん坊でさえ、自らの身体を使って「ものを形づくる」。どんなにドロドロの冷えたごはんを食べても、それが肛門を通り抜ける頃には、熱く、一定の形を保っている。その神秘に子どもたちは気がついている。うれしくて仕方ないのだろう。自分か

          つちとつちのあいだで

          煙草をほんとうに愛するには煙草をやめなければならない

          わたしの住んでいるシェアハウス界隈のひとがどんどん禁煙し始めている。わたしは『禁煙セラピー』を読んでやめたのだけれども、その禁煙開始日と同じ日に、シェアハウスによく出入りしているVが体調が優れないからという理由で禁煙を開始したとのことだった。それ以外のひとたちも、『禁煙セラピー』を回し読んでは続々と禁煙を開始している。なんだかこんなとき、集合的無意識のようなもの、あるいは、わたしたちが共通して浸っている共同幻想のようなものの「実在」を感じずにはいられない。煙草をやめるという流

          煙草をほんとうに愛するには煙草をやめなければならない

          香水というベールについて

          香水。 毎日つけるというひともいれば、ここぞというときにだけつけるひともいるかもしれない。かくいうわたしは毎日香水をつけている。気分やシチュエーション、時間帯によって使い分けているが、香りひとつで気分が変わったりするのはとてもおもしろい。このnoteでは、香水について書いてみよう。 ひとむかし前、瑛人さんの「香水」が流行った。恋人がつけていたドルチェ&ガッバーナの香水のせいで未練を断ち切ることができないという歌詞だけれども、それほどに香りというのは記憶と深く結びついている

          香水というベールについて

          心斎橋のクラブであっちのクスリを求められた話

          ある有名テクノミュージシャンのライブがあるというので、心斎橋のクラブに終電で向かった。前座のアーティストも大いに盛り上げていたし、本命のアーティストによるDJも洗練されていてかっこよかった。気持ちよかった。目当てのひとたちを聞き終えたあと、同行した友人とのんびりフロアで音楽に乗っていたら、外国人らしいひとに声をかけられた。 「Do you have xxxx?」 爆音もあってうまく聞き取れなかったので、Please talk slowly.と言った。だが、それでもうまく聞

          心斎橋のクラブであっちのクスリを求められた話

          通学路を歩きなおしてみよ、あなたがかえってくる

          実家に帰ってきた。今住んでいるシェアハウスは実家に近いので、月に一度くらいは実家に帰っている。だから今回も約1ヶ月ぶりである。お盆が近いということもあり、なんとなく、どこかに往ったり、還ったりということを考えずにはいられない。 わたしが通っていた小学校まで、通学路の通りに歩いてみた。これも、小学生の頃の自分に「還ろう」とする動きかもしれない。時刻は17時。夏至を過ぎて2ヶ月弱が経ったとはいえ、まだ日は長い。太陽は横顔を灼いてくる。今日から長期のお盆休みに入ったひとも多いのか

          通学路を歩きなおしてみよ、あなたがかえってくる